橘諸兄政権とは、奈良時代中期、天然痘で藤原四子が相次いで没したあとに、橘諸兄が太政官の中心を担った政治体制を指す現代の研究用語です。時期の中心は737年以後で、舞台は平城京・恭仁宮・紫香楽宮・難波宮をまたぐ天平国家です。最大の特徴は、疫病・反乱・財政圧力に直面した国家が、仏教政策、都城移動、土地制度の見直しを組み合わせて立て直しを図ったことにあります。重要なのは、これを諸兄一人の専制ではなく、聖武天皇・光明皇后・元正太上天皇・玄昉・吉備真備らを含む複合的な権力配置として理解することです。近年は、とくに恭仁宮・難波宮・紫香楽宮の発掘と都城研究の進展によって、従来の単純な権力闘争による遷都像が見直されつつあります。
橘諸兄政権とは何か
橘諸兄政権とは、現在の研究者が用いる整理概念で、当時の正式な政権名ではありません。2019年の研究でも「いわゆる『橘諸兄政権』」という言い方が使われており、これは現代的な内閣ではなく、橘諸兄が太政官の首班として強い影響力をもった時期を便宜的に示す言葉です。したがって、まず政権という語をそのまま現代政治に重ねないことが大切です。
諸兄その人は皇族出身で、もとは葛城王と呼ばれ、736年に臣籍に下って橘宿禰諸兄となりました。737年に天然痘流行で藤原四子が相次いで没すると、諸兄は大納言、ついで右大臣となり、743年には左大臣に達します。一般向けの辞典でも、この時期に諸兄が太政官の首班となり、玄昉・吉備真備を起用したと整理されています。
この政権の中心時期をどこまで取るかには幅があります。狭く見れば、藤原四子体制が崩れた737年から、孝謙天皇即位後に藤原仲麻呂の発言力が増す749年ごろまでです。広く見れば、諸兄が755年の酒宴事件を経て756年に致仕し、757年に没するまでを含めることもできます。
成立以前の状況と時代背景
橘諸兄政権が成立した直接の背景は、737年の天然痘流行でした。奈良時代国家の中枢を担っていた藤原四子がこの流行で相次いで死去し、従来の政治体制が一挙に崩れます。2019年の論文でも、この疫病によって藤原四子体制あるいは武智麻呂政権が崩壊し、政界の主導権が橘諸兄の手へ移ったと整理されています。
しかし、これは単なる人事の空白ではありませんでした。聖武天皇の治世は、権力闘争、疫病、そして地方統治の負担増が重なる不安定な時期でした。東大寺の公式解説でも、長屋王の変、天然痘の大流行、藤原広嗣の反乱が続き、社会と政治の不安が深かったことが強調されています。
そのため、諸兄政権の成立は、誰かが勝って誰かが負けたというだけではなく、律令国家が危機管理モードへ切り替わった局面として見る必要があります。今日の研究では、政治・宗教・都城・財政を別々に扱うより、国家が不安のなかで支配の正当性をどう再構築したかを一体で見る傾向が強いです。
成立と発展の過程
諸兄政権を表面化させた事件が、740年の藤原広嗣の乱です。広嗣の挙兵は、ただ藤原氏の私怨だったと単純化できません。近年の整理では、玄昉・吉備真備の進出、仏教政策、地方制度の簡素化や農民負担の軽減と見られる政策転換、さらには阿倍内親王の立太子など、複数の不満が背景に重なっていた可能性が論じられています。
広嗣の乱ののち、聖武天皇は首都を固定せず、平城京から恭仁宮へ移り、さらに紫香楽宮・難波宮を経て、745年に平城へ戻ります。京都府教育委員会の発掘成果資料に付された年表では、740年末の恭仁宮行幸、741年の国分寺建立の詔、743年の墾田永年私財法と大仏造立の詔、744年の難波皇都の勅、745年の平城還都という流れが確認できます。
この流れのなかで、恭仁宮は諸兄政権を考えるうえでとくに重要です。文化庁の解説でも、恭仁宮は広嗣の乱後に経営された皇都であり、平城宮から大極殿を移築したとみられること、朝堂院や内裏地区の構成が具体的にわかってきたことが示されています。さらに2026年2月には恭仁宮跡が特別史跡に指定され、研究・保存上の位置づけがいっそう高まりました。
政治と支配構造の特徴
橘諸兄政権の特徴は、藤原氏に依存しない統治ではなく、藤原氏の独走を一時的に抑えつつ、天皇中心の国家を再編しようとした政権運営にありました。諸兄は太政官の首班として大きな役割を果たしましたが、最終決定権はあくまで聖武天皇にあり、さらに元正太上天皇や光明皇后も無視できない存在でした。したがって、これは一人の宰相が統べる体制というより、宮廷内の複数拠点の均衡の上に立つ政治でした。
その政権を支えたのが、唐から帰国した学識僧の玄昉と留学生官人の吉備真備です。一般向け教材でも、諸兄が玄昉・吉備真備を補佐役として政治を進めた点が押さえられていますが、近年研究では彼らを単なるブレーンではなく、学識・儀礼・文書実務・国際知識をもつ政策資源として位置づける傾向があります。広嗣の乱がこの二人の排除要求と結びついていたこと自体、彼らの政治的存在感の大きさを示しています。
一方で、諸兄政権には明確な限界もありました。745年には玄昉が筑紫観世音寺へ移され、翌746年にその地で没したことが確認されています。諸兄政権が依拠した人材配置は、藤原仲麻呂の台頭にともなって次第に切り崩されていきました。
経済・宗教・制度は何が変わったのか
経済と制度の面で象徴的なのが、743年の墾田永年私財法です。京都府教育委員会の発掘成果資料や恭仁宮跡の公式解説では、この法が恭仁宮の時期に出された重要政策として位置づけられています。一般には私有地を認めた法とだけ覚えられがちですが、実際には、口分田と班田収授に支えられた旧来の税制だけでは国家運営が苦しくなり、新たな開墾を促して財政と生産を立て直す必要があった、という背景を持ちます。
ただし、この政策をただちに律令制の崩壊へ直結させるのは単純すぎます。2019年の研究でも、天平10年前後の政策内容は地方制度の整備や簡素化、農民負担の軽減として理解すべきだという整理が紹介されており、当時の政策転換をどのように評価するかは、今でも研究上の論点です。つまり、後退ではなく調整とみる見方もあるわけです。
宗教制度の面では、741年の国分寺・国分尼寺建立の詔と、743年の大仏造立の詔が決定的でした。東大寺の公式解説によれば、国分寺建立は『金光明最勝王経』と『法華経』を拠り所に各国単位の安寧を祈る構想であり、大仏造立は『華厳経』に基づき、国家全体、ひいては「動植咸くに栄えむ」というより大きな世界秩序の願いへ踏み込んでいます。ここに、諸兄政権期の国家が仏教を利用したというより、仏教を国家の再統合原理として本格採用したことが見て取れます。
都城移動と地政学をどう見るか
恭仁宮は山背国相楽郡、現在の京都府木津川市加茂地域にあり、木津川流域の交通と南山城の地勢を背景にした都でした。文化庁の解説では、宮跡は東西約560メートル、南北約750メートルとされ、平城宮第一次大極殿の移築と考えるのが妥当とされています。つまり、恭仁宮は仮の避難先ではなく、かなり本格的な都城計画を伴っていました。
また、近江国甲賀郡の紫香楽宮へ向けて742年に「恭仁京東北道」が開かれたことが、甲賀市の公式解説に明記されています。これは都城移動が場当たり的だったのではなく、道路整備や関連遺跡群の形成をともなう、広域的な政治プロジェクトだったことを示します。紫香楽宮跡は東西約2キロ、南北約3キロの関連遺跡群として把握され、2022年には史跡指定地の追加も行われました。
ただし、都の移動をそのまま諸兄派と反諸兄派の対立と説明する理解は、近年やや慎重になっています。2026年の大阪歴史博物館の研究は、744年の難波宮皇都宣言について、従来のような聖武天皇・光明皇后と元正太上天皇・橘諸兄の対立を前提にしなくても説明できる可能性を示しています。近年の都城研究は、宮殿構造や儀礼運用の具体相から再検討を進めており、政治対立だけですべてを読む見方を修正しつつあります。
考古学と史料から何がわかるか
橘諸兄政権を知る基本史料は『続日本紀』です。これは『日本書紀』に続く六国史の一つで、国文学研究資料館の国書データベースでも延暦16年、つまり797年成立の史書として確認できます。Japanese Historical Text Initiative でも、奈良時代を知る最重要史料の一つとして位置づけられています。
ただし、『続日本紀』は同時代日記ではなく、後代に編纂された官撰史書です。宮廷側の視点が強く、政治的に不都合な事柄の記述密度にも偏りがありえます。そこで重要になるのが、木簡や発掘遺構です。奈良文化財研究所の木簡庫には恭仁宮跡や紫香楽宮跡の木簡が登録されており、都城経営が文書行政をともなう実務として動いていたことを物質的に裏づけます。
さらに、国立歴史民俗博物館のデータベースには、原品が749年の勅書を写した江戸時代資料があり、そこには左大臣橘諸兄以下三名の自署があったと説明されています。これは原本そのものではありませんが、諸兄が国家的布施文書に署名する立場にあったことを示す、史料伝来上きわめて興味深い例です。一次史料ではない点に注意は必要ですが、官文書の形式や権力関係を考えるうえで価値があります。
2024年には京都文化博物館で「天平の都 恭仁宮 最新の発掘調査から」展が開かれ、京都府教育委員会が50年以上続けてきた発掘の成果が一般向けに示されました。2023年にも恭仁宮跡発掘50周年記念展が行われており、2026年の特別史跡指定とあわせて、近年の研究は文献解釈だけでなく、考古学側からも大きく前進しています。
変化・衰退・再編はどう起きたか
橘諸兄政権の衰退は、1つの事件で突然起きたわけではありません。743年に諸兄は左大臣となりますが、749年以後は藤原仲麻呂の影響力が増し、従来の諸兄中心の体制は揺らぎます。2011年の木本好信の論考は、749年以後を「光明・仲麻呂政治体制」として捉え直し、諸兄政権の終わりをより早い段階から考える視点を示しました。
この再編の背景には、后妃・太上天皇・皇太子候補をめぐる宮廷政治、仏教政策を支えた人材の処遇、都城問題、そして聖武天皇の健康不安が重なっていました。745年以後に東大寺大仏造立が平城で本格再開する一方、諸兄が主導した恭仁宮構想は、746年には大極殿の国分寺施入という形で別の制度へ転化していきます。ここで崩れたのは国家そのものではなく、諸兄を軸にした政治秩序でした。
その意味で、諸兄政権の終焉は滅亡ではなく再編です。後継は藤原仲麻呂体制であり、制度・寺院・都城・文書行政は継続します。むしろ、諸兄政権期に推し進められた国分寺体制や大仏造立は、次の政治秩序にも深く組み込まれて残り続けました。
研究史と最新研究
研究史上、橘諸兄政権は長く藤原四子の死後に成立し、藤原仲麻呂に敗れた中継ぎ政権と理解されてきました。その基本線自体は今も有効ですが、近年は中継ぎというより、天平国家の危機管理と再編を担った中核期として再評価される傾向があります。2019年刊の中村順昭『橘諸兄』のような人物史も、その再検討の流れの一環にあります。
また、個別論点でも修正が進んでいます。藤原広嗣の乱については、古くは玄昉・吉備真備への反感が強調されましたが、近年は政策転換、地方負担、立太子問題などを含む多面的な事件として理解されつつあります。2019年の阿部久美子の論文は、その整理をわかりやすく示しています。
都城移動の解釈も変わっています。直木孝次郎らの議論では、天平16年の難波遷都に元正太上天皇と橘諸兄の側が深く関わった対立図式が有力でしたが、2026年の佐藤隆の研究は、宮殿構造・儀礼・難波宮の位置づけを再検討し、単純な対立史観では説明しきれない可能性を示しました。2025年の新井真帆の論考も、太上天皇の行動を帝権分離宣言の観点から再検討しています。
考古学では、恭仁宮・紫香楽宮・難波宮の発掘がこの研究更新を支えています。とくに恭仁宮は、1973年以来の継続発掘で朝堂院や大極殿院の具体像がかなり見えてきました。2024年の博物館展示と2026年の特別史跡指定は、その成果が一段と蓄積したことを示す、研究史上の節目といえます。
現時点で分かっていないこと
まず、橘諸兄政権の始まりと終わりをどこに置くかは、今でも完全には一致していません。737年からと見るか、右大臣就任後の738年からと見るか、あるいは749年以後も諸兄政権の余波を含めるかで、叙述の仕方が変わります。これは政権が当時の公式名称ではなく、研究者が便宜的に設定した枠組みだからです。
次に、都城移動の動機もなお論争的です。恭仁宮が諸兄の本拠に近いことは古くから指摘されてきましたが、それだけで遷都理由を説明するのは不十分です。防衛、交通、儀礼、仏教政策、皇室内の力学がどう重なったのかは、発掘成果が増えるほど逆に単純化しにくくなっています。
さらに、諸兄と光明皇后・元正太上天皇・仲麻呂の関係も、はっきりした派閥図で描けるほど単純ではありません。敵対・協調・一時的な利害一致が時期ごとに入り組んでおり、今後も史料再読と遺跡研究によって見直される可能性があります。
まとめ
橘諸兄政権の本質は、藤原氏の一時的後退のあいだに現れた空白期ではなく、危機のなかで律令国家を再編した天平国家の実験期にあります。成立を可能にしたのは、藤原四子の死による政治空白、皇族出身の諸兄の権威、そして玄昉・吉備真備の知的資源でした。最も重要な特徴は、仏教・都城・土地制度を結びつけて国家を再統合しようとしたことです。
同時に、その体制は不安定でした。聖武天皇の巡幸と遷都、宮廷内の複数権力、財政負担、藤原仲麻呂の成長が、諸兄政権を長期安定に向かわせませんでした。それでも、この時期に進んだ国分寺体制や大仏造立は後世へ残り、日本国家と仏教の結びつきを深めることになります。
現在の研究が教えてくれるのは、通説を単純に裏返すことではありません。むしろ、恭仁宮・紫香楽宮・難波宮の発掘や史料再読によって、奈良時代政治が思っていた以上に複雑で、流動的で、多中心的だったことが見えてきた、という点です。橘諸兄政権は、その複雑さがもっともよく表れた時期だといえます。
よくある疑問Q&A
Q.橘諸兄政権とは簡単に言うと何ですか。
奈良時代中期、737年の天然痘流行後に橘諸兄が太政官の中心となって進めた政治体制を指す、現代の研究用語です。ただし当時の正式な政権名ではなく、聖武天皇のもとで諸兄が強い影響力を持った時期をまとめた呼び方です。現代の内閣のように一人が単独で支配した体制ではありません。
Q.橘諸兄政権はいつ成立しましたか。
一般には、藤原四子が天然痘で相次いで亡くなった737年以後に成立したと考えられます。諸兄はこの年に大納言となり、翌738年には右大臣、743年には左大臣へ進みました。そのため、737年から738年ごろを成立期とみるのが自然です。
Q.橘諸兄政権は何をしたのですか。
この時期には、741年の国分寺建立の詔、743年の墾田永年私財法、同年の大仏造立の詔など、後世まで影響する大政策が進められました。また、平城京から恭仁宮、紫香楽宮、難波宮へと都が移り、国家の再編が大規模に進みました。政治・宗教・都城・経済が一体で動いた時期だといえます。
Q.藤原広嗣の乱はなぜ起きたのですか。
従来は、玄昉と吉備真備への反感が主因とされることが多くありました。しかし近年研究では、それだけでなく、政策転換、地方支配の負担、仏教政策、阿倍内親王の立太子など、複数の不満が重なった結果として理解する見方が有力です。つまり、一つの感情だけで起きた乱ではありません。
Q.都を何度も移したのは、橘諸兄と聖武天皇が対立していたからですか。
そのように説明する古い研究はありますが、現在はそれだけでは説明しにくいと考えられています。近年の都城研究では、宮殿構造、儀礼運用、道路整備、仏教政策などを含めて検討し、単純な派閥抗争説を修正する流れが出ています。対立がまったくなかったとは言い切れませんが、それだけが理由だったとは断定できません。
Q.橘諸兄政権はなぜ終わったのですか。
一言でいえば、藤原仲麻呂の台頭によって宮廷内の力関係が変わったからです。玄昉の失脚など、諸兄政権を支えた人材配置も崩れ、749年以後は諸兄の影響力が相対的に低下しました。755年の酒宴事件を経て、諸兄は756年に退き、翌757年に没します。
Q.橘諸兄政権の最大の歴史的意義は何ですか。
疫病と反乱で揺らいだ律令国家が、仏教政策、土地制度、都城再編を通じて自己修復を試みた、その中心期だったことです。国分寺体制や東大寺大仏造立は、その後の国家と宗教の関係を長く規定しました。橘諸兄政権は短命でしたが、天平国家の方向を決めた時期として非常に重要です。
参考
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