光明皇后の生涯と実像

光明皇后は、奈良時代の皇后・皇太后で、父の 藤原不比等 と母の 県犬養橘三千代 の政治資源を背景に、夫の 聖武天皇 とともに仏教を軸とする国家運営を進め、娘の 孝謙天皇 の即位を支え、医療・救済施設、寺院建立、写経事業、そして 正倉院 宝物の形成に深く関わった人物です。一般には「慈悲深い皇后」として語られがちですが、実像はそれだけではありません。王位継承、宮廷組織、財源管理、仏教政策をまたいで動いた、非常に政治的な存在でもありました。

検索意図に先回りして結論を言うと、光明皇后を理解する鍵は「福祉」「仏教」「藤原氏」「王位継承」「正倉院」の五つです。ただし、有名な「病者やハンセン病者を自ら洗った」という話は、同時代の一次史料でそのまま確認できる話ではなく、後世に大きく育った伝説の面があります。また、「初の臣下出身皇后」という理解は現在でも広く流布していますが、その異例さの中身をどう考えるかは近年の研究で再検討されています。

この記事では、光明皇后とはどんな人物か、なぜ奈良時代の中心人物なのか、何をしたのか、どこまでが史実でどこからが後世の理想化なのかを、一次史料と近年研究をもとに整理します。読み終えるころには、光明皇后を「やさしい皇后」で終わらせず、「制度をつくり、信仰を政治化し、記録に残した人物」として説明できるはずです。

光明皇后とはどんな人物か

人物の基本像

光明皇后は701年生まれ、760年没の奈良時代の皇后・皇太后です。一般向けの公式解説では、聖武天皇の皇后で孝謙天皇の母、そして729年に「初の人臣出身皇后」となった人物として紹介されています。まず押さえるべきなのは、彼女が単なる皇族の配偶者ではなく、藤原氏の台頭と結びついた政治の要でもあった点です。

一方で、近年の研究は、「律令制では皇后は必ず皇族に限られた」と単純化するのは危ういと指摘します。立命館大学の博士論文要約は、光明子の立后を従来ほど絶対に異例とみなせない可能性を示しており、審査要旨も、彼女の立后をめぐっては出自だけでなく藤原氏の財力や政治環境を含めて再評価すべきだと要約しています。つまり、光明皇后は「前代未聞の突破者」とだけ言い切るより、「そう説明されてきた人物だが、その前提自体が今は見直されている」と理解するのが安全です。

生きた時代と社会背景

光明皇后が生きた奈良時代は、平城京 を中心に、唐の制度や文化を取り入れながら律令国家を整えようとしていた時代です。聖武天皇自身が唐代の文物・制度を積極的に採り入れ、東大寺と大仏の造営、国分寺・国分尼寺政策を推し進めました。そのため、政治・宗教・都城・外交は別々ではなく、一つの国家事業として動いていました。

この時代はまた、対外交流の恩恵と不安が同時に大きかった時代でもあります。たとえば、僧の 玄昉 は唐から五千余巻の経典をもたらし、光明皇后の大規模写経事業の前提を整えました。逆に、735年から737年にかけての疫病流行は国家を深く揺さぶり、政治配置そのものを変えました。光明皇后の事績を理解するには、この「国際化」と「感染症危機」という二つの背景を外せません。

出自・幼少期・教育

出自は明確です。奈良文化財研究所の木簡データベースは、大宝元年の木簡説明の中で、三千代が同年に安宿媛、すなわち後の光明皇后を出産したことを説明しています。母の三千代はもともと 美努王 に嫁いで 橘諸兄 らを生み、その後に不比等と再婚しました。したがって、光明皇后は藤原氏の政治力と、母方の複雑な皇親・貴族ネットワークの両方を背負って育ったことになります。

ただし、出生地や幼少期の細かな日常は、主要史料からははっきりしません。わかるのは、彼女が宮廷の中枢に近い家に育ち、のちに高い漢字文化・仏教知識・書の素養を示すということです。正倉院と奈良国立博物館の解説によれば、彼女は 楽毅論 を書写しており、さらに正倉院には『杜家立成』の書写も伝わります。これは、光明皇后が単に信仰心の厚い人だっただけでなく、中国書法と文書文化に通じた高度教育の受け手だったことを示します。

台頭の過程と主要事業

台頭の過程と転機

光明皇后は716年にまだ皇太子だった首皇子、のちの聖武天皇と結婚し、不比等邸を拠点とする生活を送りました。九州大学総合研究博物館の論文では、彼女が霊亀2年に首皇子と結婚して皇太子妃となり、のちに皇后宮を宮外に営んだ流れが整理されています。ここからすでに、彼女の生活基盤が皇族の後宮というより、外戚たる藤原家の邸宅・資源と強く結びついていたことがわかります。

724年に聖武天皇が即位すると、光明子は夫人となりました。その後、718年生まれの阿倍内親王が後の孝謙天皇となり、727年には待望の皇子・基王が生まれます。基王は生後三か月で立太子するという異例の厚遇を受けましたが、728年に幼くして亡くなりました。この夭折は、光明皇后と藤原氏にとって大きな転機でした。男子皇嗣の道が閉ざされたことで、彼女は娘の皇位継承を現実的な選択肢として押し出す必要に迫られたからです。

729年には、長屋王の死後に光明子が皇后となります。伝統的な説明では、長屋王 の変が光明立后の障害を取り除く政変だったと理解されてきましたが、この因果関係の強さは後に見直しが進みます。ただ、少なくとも政治の現実として、長屋王の退場と光明立后が近接して起きたこと、そしてその結果として藤原氏の影響力が大きく伸びたことは確かです。

さらに735年から737年の疫病流行が追い打ちをかけます。藤原四兄弟は相次いで亡くなり、政局は大きく揺れました。この危機の数年後、738年に阿倍内親王が立太子し、749年に即位します。つまり、基王の死、疫病による政界再編、阿倍内親王の立太子、孝謙天皇の即位という一連の流れの中心に、光明皇后の家と意志があったと見るのが自然です。

何をした人か

光明皇后の最重要業績を一言でいえば、「慈善を制度化し、仏教を国家事業化し、それを文書と宝物で残したこと」です。単発の善行ではなく、役所、寺院、写経所、献納帳、宝庫という形に落とし込んだ点にこそ、彼女の大きさがあります。

まず福祉・医療面では、施薬院と悲田院の設置が挙げられます。奈良県立図書情報館のレファレンスは、『続日本紀』天平2年4月17日条に皇后宮職へ施薬院を置いたことを示し、早稲田大学リポジトリの研究は、皇后宮職下の施薬院が立后の翌年に成立したと整理しています。奈良国立博物館や奈良県の公式解説も、光明皇后を病者・孤児救済と結びつけて紹介します。現代の病院や福祉施設と同一視はできませんが、宮廷の資源を使って貧病者の救済を制度化しようとした点は重要です。

寺院建立でも足跡は大きく、731年には 海龍王寺 が玄昉の帰国安全と経典伝来を念じて創建され、745年には 法華寺 が総国分尼寺として整えられ、747年には 新薬師寺 が聖武天皇の病気平癒を祈って創建されました。法華寺は父の邸宅跡に建ち、女性のための国家的尼寺の中心となります。ここには、仏教を国家鎮護だけでなく、女性の修行と救済の場にまで広げようとした光明皇后の構想が見えます。

写経事業では、奈良国立博物館と国立国会図書館が解説する「五月一日経」が代表的です。これは亡父母の追福と自らの仏教信念の表明を目的とする大規模な一切経事業で、願文の日付が740年5月1日であることからそう呼ばれます。事業は736年に玄昉が唐から大量の経典を持ち帰ったことで本格化し、総巻数はおよそ6500~7000巻近くに達したと推定されています。親の供養であると同時に、宮廷が仏教知をどう蓄積するかという国家的事業でもありました。

文化面でも軽視できません。奈良国立博物館の解説によれば、正倉院には光明皇后が書写した楽毅論が伝わり、正倉院には彼女が書写した『杜家立成』も残ります。これは、彼女が仏教の庇護者であるだけでなく、書・読書・文書の実践者だったことを意味します。宮廷女性としてはもちろん、奈良時代全体で見てもかなり高い教養を示す材料です。

そして何より、756年の献納です。聖武天皇の死後四十九日にあたる6月21日、光明皇后は東大寺大仏に天皇遺愛の品々約六百数十点を献納し、その目録が『国家珍宝帳』です。同日には60種の薬物も『種々薬帳』として献納されました。さらに756年から758年にかけて五回の献納が行われ、それらの記録が『東大寺献物帳』群として残ります。現在の正倉院宝物の中核は、このときの献納に由来します。つまり、光明皇后は日本美術史・文化財史の上でも決定的な仕事をした人物です。

思想・性格・人間関係

思想・性格・統治スタイル

光明皇后の思想を一語でまとめるなら、「仏教を通じて人を救い、その救済を国家秩序の中に組み込む」という姿勢です。奈良県立万葉文化館の人物解説は、崩伝に基づいて彼女を幼少から聡慧で、施薬院・悲田院、東大寺、国分寺の創建に力を注いだ人物として説明しています。ここで大切なのは、彼女の慈悲が私的な施しにとどまらず、役所・寺院・写経・献納という制度的な回路を必ず伴っていることです。

この統治スタイルを支えたのが、皇后宮職という組織でした。東京大学史料編纂所は、正倉院文書が「光明皇后の皇后宮職から東大寺写経所に至る」文書群だと説明し、国立歴史民俗博物館の2024年論文は、皇后宮職の下に高級絹織物の生産を担う組織まであったことを論じています。つまり、光明皇后の活動は、後世の美談としての慈善ではなく、実務を動かす官司を伴った現実の運営でした。

749年に孝謙天皇が即位すると、光明皇后は皇太后となり、皇后宮職は改組されて紫微中台となります。さらに758年には坤宮官へ改称され、長官には 藤原仲麻呂 が就きました。奈良県の公式解説でも、749年以降にこの組織が拡張され、仲麻呂が左大臣の橘諸兄を凌ぐ力を持ったことが説明されています。光明皇后の統治スタイルは、信仰を前面に出しながらも、実態としては組織編成と人事によって政治を動かすものだったと言えます。

人間関係とライバル

人間関係の核は、父の不比等、母の三千代、夫の聖武天皇、娘の孝謙天皇です。加えて、母の前婚の子である橘諸兄は事実上の義兄であり、奈良時代の政界で大きな役割を担いました。母の再婚が生んだこの複合家族は、そのまま奈良時代政治のネットワークでもありました。

ライバル関係で重要なのは、まず王位継承です。基王の死後、他の有力皇子として安積親王が浮上しうる状況があり、光明皇后の立場からすれば、娘の阿倍内親王を皇位継承ラインに乗せることが死活問題でした。したがって、彼女の宗教事業や写経が、純粋な信仰実践であると同時に、娘の正統性を支える政治資源でもあったと考える研究が出てくるのは自然です。

もう一つの軸は、長屋王と仲麻呂です。長屋王は旧来の皇親政治の頂点に立つ存在として、従来の研究では光明立后の障害とみなされてきました。他方、仲麻呂は光明皇太后期の政治装置である紫微中台の長官として、彼女の権勢を具体的に動かす人物でした。光明皇后の生涯は、外戚藤原氏の上昇と、皇親政治から外戚政治への比重移動の只中にあったのです。

失敗・限界・晩年

失敗・限界・論争点

光明皇后をめぐる最大の論争点は、やはり伝説と史実の境目です。もっとも有名な「病者やハンセン病者を自ら洗った」という話は、松尾剛次の2022年論文が明確に示すように、中世の叡尊教団による救済活動と結びつきながら変容・拡散した伝承です。論文要旨は、この伝説が鎌倉期から南北朝期にかけて場面や登場仏を変えつつ広まり、法華寺と結びついたことを示しています。したがって、この話をそのまま奈良時代の事実として書くのは危険です。ここは「後世の理想化が大きい」と明記したほうが正確です。

次に、立后の意味です。一般向けの公式解説は今でも「初の人臣出身皇后」と説明しますが、最近の研究は、その異例性の捉え方自体を再検討しています。従来は「皇后=皇族」という前提で理解されてきたため、光明立后は長屋王排除と不可分の大事件とされました。しかし、博士論文要約や審査要旨は、律令規定や当時の継承制度を踏まえると、その前提を硬直的に置きすぎていた可能性を示しています。ここは、現在も結論が一本化していない論点です。

また、施薬院・悲田院についても、美談化しすぎない注意が要ります。『続日本紀』に設置記事があり、後代も一貫して光明皇后と結びつけて記憶されましたが、実際の運営規模、継続性、どれほどの人々がどのように救済されたかという具体像は、正倉院文書などから部分的にしか追えません。ここは不明な点が多いです。「福祉の先駆者」という評価は大筋で妥当でも、現代の社会福祉制度と同じものを想像すると誤ります。

寺院建立についても、現在見える建物のすべてが奈良時代そのままではありません。法華寺は平安以後に衰退と復興を繰り返し、現伽藍の多くは後世の再建です。新薬師寺も、創建当初は七堂伽藍の大寺でしたが、現存するのは本堂を中心とする一部です。したがって、光明皇后の建立とは、現在の建物そのものを一から残したという意味ではなく、寺院構想を起こし、国家的な宗教拠点を用意したことを指します。

晩年・死因・最期

晩年の光明皇后は、聖武天皇の死後もなお宗教的・政治的に大きな存在でした。749年の皇太后化と紫微中台の設置、758年の尊号「天平応真仁正皇太后」と坤宮官への改称は、その権威がなお制度的に強化されていたことを示します。

760年、光明皇后は60歳で亡くなり、現在の奈良市にある 佐保山東陵 に葬られたとされます。奈良市観光協会は佐保山東陵を光明皇后の陵として案内し、奈良県立万葉文化館も天平宝字4年に崩じたと整理しています。ただし、死因については、主要史料や公式解説からは断定できません。ここは不明です。

没後の扱いは非常に重く、奈良国立博物館は、光明皇后の四十九日にあたって大量書写された経典群の可能性を示しています。さらに、後世の研究や辞典史料は、彼女が国忌の対象となり、陵も山陵として扱われたことを指摘しています。これは、臣下出身でありながら天皇に準じる記憶の仕方をされたことを意味します。

後世への影響と評価

光明皇后の影響は、まず制度と文化財のレベルで非常に大きいです。東大寺大仏への献納は、今日の正倉院宝物の核となり、法華寺は総国分尼寺として女性仏教の中心に位置づけられ、新薬師寺や海龍王寺も奈良の宗教景観の一部として残りました。これは単なるゆかりではなく、現代の奈良観光や文化財行政の地図をつくったレベルの遺産です。

評価は二層に分かれます。一つは、病者・孤児・女性の修行空間に目を向けた慈悲の人としての評価です。奈良の公式観光案内はいまも彼女を救済事業の先駆者として語り、法華寺や正倉院はその記憶を可視化する場所として機能しています。もう一つは、藤原氏の外戚政治、王位継承、仏教の政治利用の中心人物としての評価です。この二つは矛盾しません。むしろ両方あったからこそ、彼女は歴史的に大きかったのです。

現代の読者にとっての行動指針としては、光明皇后を「善人か政治家か」で二択にしないことが重要です。史料を見るかぎり、彼女の強みは、祈りや慈善の理念を、役所、寺院、写経、記録、宝物管理という残る仕組みに変えたところにあります。感情だけでなく制度まで設計すること。これは現代の寄付、福祉、文化保全、組織運営にも通じる学びです。

研究史・史料状況とQ&A

研究史・史料状況・論争点

光明皇后研究の土台になる一次史料は、第一に 続日本紀、第二に正倉院文書、第三に東大寺献物帳や五月一日経のような物と文書が一体になった史料、第四に木簡です。東京大学史料編纂所は、正倉院文書が皇后宮職から東大寺写経所へ連なる事務文書群だと説明しており、これが彼女の活動を美談ではなく行政として追う基礎になります。反面、こうした文書は事務に強く、内面や感情はあまり語りません。私たちが光明皇后の心情を細部まで知ることはできない、という限界もあります。

研究史としては、1950年代以降、光明立后と皇后宮職を軸に政治史研究が進み、1993年の井上亘論文が従来の定説に批判を加えました。その後は、木簡や発掘成果を使って皇后宮の所在地や組織を見直す研究、皇后宮職の手工業生産を論じる研究、法華寺や旧不比等邸の考古学的研究、そして中世の伝説形成を扱う研究へと広がっています。近年の光明皇后研究は、政治史だけでも、宗教史だけでも足りず、文書史・考古学・文化財学をまたぐ総合研究になっています。

よくある疑問Q&A

Q:光明皇后は結局何をした人ですか

A:ひと言でいえば、奈良時代に仏教・福祉・王位継承・文化財形成をつないだ人物です。施薬院・悲田院の設置、法華寺・新薬師寺・海龍王寺との関わり、五月一日経の大規模写経、そして東大寺大仏への献納による正倉院宝物の形成が、代表的な事績です。

Q:なぜそんなに重要人物なのですか

A:重要なのは、彼女が一つの分野だけの人ではないからです。奈良時代の政治は、外交、仏教、都城、王位継承、疫病対応が絡み合っていましたが、光明皇后はその複数の回路の中心にいました。しかも活動が文書・宝物・寺院として残っているため、影響が現在まで見えるのです。

Q:本当に病人を自分で洗ったのですか

A:有名ですが、そのまま奈良時代の史実と断定するのは危険です。近年研究は、この話が中世に叡尊教団の救済活動と結びついて広がり、法華寺の伝承として定着したことを示しています。したがって、本文では「後世に膨らんだ伝説」として扱うのが適切です。

Q:施薬院と悲田院は現代の病院や福祉施設と同じですか

A:同じではありません。施薬院は薬を施す場、悲田院は貧窮者・孤児・病者救済と結びつく施設として理解できますが、宗教的功徳、宮廷財源、役所組織が一体化しており、現在の公的医療や社会福祉制度とは性格が違います。ここは似ている面がある一方で、別物だと考えるべきです。

Q:なぜ正倉院と結びつくのですか

A:756年以降の献納が理由です。光明皇后は聖武天皇の遺愛品と薬物を東大寺大仏へ献納し、その目録が『国家珍宝帳』『種々薬帳』などとして残りました。奈良国立博物館の解説がいう通り、これらが現在の正倉院宝物の根幹になりました。

Q:法華寺との関係はどの程度深いのですか

A:非常に深いです。法華寺は父の不比等邸跡に建てられた総国分尼寺で、光明皇后の寺院政策を象徴する場所です。現在見える伽藍は後世再建が多いものの、寺の歴史的アイデンティティそのものが光明皇后と不可分です。

Q:娘の孝謙天皇即位に光明皇后はどこまで関わったのですか

A:一次史料が「どこまで本人の意思か」を細部まで語るわけではありませんが、基王の死後に阿倍内親王が立太子し、のちに即位する流れの中で、光明皇后の家と組織が大きな支えだったことは確かです。学界でも、彼女の宗教事業や政治行動を、娘の継承を支える文脈で読む研究が多いです。

Q:「初の臣下出身皇后」は間違いなのですか

A:間違いだとまでは言えません。現在でも多くの公式解説がそう説明しています。ただし、近年研究は、「それをどこまで絶対的な禁制破りとみるか」を見直しています。つまり、表現自体は通用しても、その意味づけは研究上固定されていません。

Q:光明皇后を調べるなら何を読めばいいですか

A:まずは『続日本紀』、正倉院文書、東大寺献物帳、五月一日経、木簡です。一般向けの入口としては奈良国立博物館、宮内庁正倉院、奈良文化財研究所の公式解説が信頼できます。研究動向まで追うなら、光明立后、皇后宮職、法華寺、伝説形成を扱う論文まで見ると、人物像の立体感が一気に増します。

参考

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  • 宮内庁 正倉院事務所(年不詳)「宝物について」. URL: https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/treasure/ 
  • 奈良国立博物館(2025)「『国家珍宝帳』」『正倉院展用語解説』. URL: https://shosointen-glossary.narahaku.go.jp/kokka-chinpo-cho/ 
  • 奈良国立博物館(2025)「『東大寺献物帳』」『正倉院展用語解説』. URL: https://shosointen-glossary.narahaku.go.jp/todaiji-kenmotsu-cho/ 
  • 奈良国立博物館(2025)「五月一日経」『正倉院展用語解説』. URL: https://shosointen-glossary.narahaku.go.jp/gogatsutsuitachikyo/ 
  • 奈良国立博物館(2025)「県犬養橘三千代」『正倉院展用語解説』. URL: https://shosointen-glossary.narahaku.go.jp/agata-no-inukai-no-tachibana-no-michiyo/ 
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  • 奈良県ビジターズビューロー(年不詳)「聖武天皇」『あをによし なら旅ネット』. URL: https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000055 
  • 奈良市観光協会(年不詳)「法華寺」. URL: https://narashikanko.or.jp/spot/detail_10014.html 
  • 奈良市観光協会(年不詳)「新薬師寺」. URL: https://narashikanko.or.jp/spot/detail_10021.html 
  • 奈良市観光協会(年不詳)「聖武天皇陵・光明皇后陵(佐保山南陵・佐保山東陵)」. URL: https://narashikanko.or.jp/spot/detail_10073.html 
  • Nara City/Nara Travelers Guide(年不詳)“Kairyuoji Temple.” URL: https://narashikanko.or.jp/en/spot/detail_10015.html 
  • Japan National Tourism Organization(年不詳)“Shinyakushiji Temple.” URL: https://www.japan.travel/en/spot/1010/ 
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  • 奈良県立万葉文化館(年不詳)「人物詳細 光明皇后」『万葉百科』. URL: https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_utabito&dataId=288 
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  • 岩本健寿(2009)「皇后宮職下施薬院の成立」早稲田大学リポジトリ所収論文. URL: https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/1271/files/BungakuKenkyukaKiyo_54_04_Iwamoto.pdf 
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  • 井上亘(1993)「光明立后の史的意義をめぐって」学習院大学リポジトリ. URL: https://glim-re.repo.nii.ac.jp/record/1538/files/shigaku_31_10_28.pdf 
  • 浅野咲(年不詳)「博士論文要約 律令制下における皇位継承と皇后」立命館大学リポジトリ. URL: https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/2000953/files/k_1778_youyaku.pdf 
  • 立命館大学(年不詳)「博士論文の題名 律令制下における皇位継承と皇后」審査要旨. URL: https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/2000953/files/k_1778_shinsa.pdf 
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