藤原宇合とは何者かを徹底解説

藤原宇合は、奈良時代前期に活動した中央官僚・将軍・文人で、藤原不比等の三男、藤原式家の祖として知られる人物です。遣唐副使、常陸守、蝦夷征討の持節大将軍、難波宮造営の責任者、参議、西海道節度使などを歴任し、文官と武官の両面で存在感を示しました。その一方で、長屋王の変で重要な役割を担ったことから、功績だけでなく政治的責任も問われる人物です。さらに、『万葉集』や『懐風藻』に作品を残した文化人でもあり、現代の研究では「有能な実務官僚」と「政争の当事者」という両面から再評価が進んでいます。 

藤原宇合とは何者か

藤原宇合は、一般に694年頃の生まれ、737年没とされる奈良時代前期の上級官人です。初名は「馬養」とも書かれ、父は藤原不比等、母は蘇我娼子とされます。兄に藤原武智麻呂・藤原房前、弟に藤原麻呂があり、宇合はこの四兄弟の一角として、のちに「式家」の祖となりました。生年は一次史料からは明確に確定しにくく、後世の『公卿補任』や『尊卑分脈』などから逆算されるため、「694年頃」とみるのが慎重な言い方です。 

歴史上の位置づけとして重要なのは、宇合が単なる藤原一門の一人ではなく、奈良朝の制度国家化が進む時代に、外交・地方統治・軍事・儀礼行政を横断して働いたことです。式部卿を長く務めたことが、後に式家という家名の由来になったと理解されています。つまり宇合は、藤原氏のなかでもとくに国家儀礼と実務運営に強く結びついた人物でした。 

同時代の重要人物には、聖武天皇、光明子、長屋王、橘諸兄、吉備真備、玄昉などがいます。宇合はこれらの人物の時代に生き、政争・制度整備・対外防備・疫病対応が同時進行するなかで活動しました。したがって宇合を理解するには、藤原氏内部の家格争いだけでなく、奈良国家そのものの不安定さも見る必要があります。 

藤原宇合が生きた時代背景

宇合が生きた奈良時代前期は、大宝律令・養老律令を土台にした律令国家が、制度を整えるだけでなく、実際に全国支配をどう運用するかを試されていた時代でした。中央では太政官と諸省が整い、地方では国司や按察使が行政監督を担い、対外的には唐・新羅との関係、国内的には北方の蝦夷や西海道の警備という安全保障上の課題がありました。宇合の官歴が、遣唐副使、按察使、持節大将軍、西海道節度使へと広がるのは、この時代の国家課題そのものを反映しています。 

政治状況としては、藤原不比等の死後、皇親勢力の長屋王が強い影響力を持ちましたが、聖武天皇の即位とともに藤原氏の巻き返しが進みました。その象徴的事件が729年の長屋王の変であり、その半年後には光明子が皇后になります。この流れは、皇族中心の政治運営から、藤原氏が外戚としてより深く王権に食い込む転換点として重く見られています。宇合はその転換の実務面を担った人物の一人でした。 

社会経済の面では、東北経営や宮都整備が進む一方、地方負担は重く、735〜737年の疫病流行は国家運営を大きく揺るがしました。奈良文化財研究所の解説では、『続日本紀』は税の免除、食糧や薬の支給、祈祷など多面的な対策を記しており、中央官人の病死が相次いで政府機能そのものが弱体化したことが示されています。現代の疫学研究でも、この流行は日本社会に深刻な人口減少と労働力不足をもたらしたと推定されています。 

出自・家系・幼少期・教育

宇合の出自は、藤原氏の急成長と強く結びついています。父の藤原不比等は、律令国家形成の中核にいた有力政治家であり、姉妹には文武天皇夫人の宮子、聖武天皇の皇后となる光明子がいました。つまり宇合は、血縁上も政治上も、早い段階から王権中枢に近い環境で育った可能性が高い人物です。これが後年の抜擢や重用の背景になったことは否定しにくいでしょう。 

ただし、幼少期の具体像は史料上ほとんど分かりません。誰に学んだか、どのような家庭教育を受けたか、青年期にどんな思想形成をしたかを直接語る同時代史料は乏しいです。したがって、この時期について断定できるのは、のちに式部卿として儀礼と人事を扱い、漢詩と和歌を残し、唐への使節にも選ばれていることから、相当高度な漢籍・文書・儀礼実務の教育を受けていたとみられる、という程度です。ここは確度が中程度の推定です。 

宇合が文官的素養と武官的経験を併せ持った点は、形成期から特徴的だった可能性があります。後年の評価でも、文武両道に通じた人物として語られることがあり、『万葉集』六首、『懐風藻』六首という作品数は、単なる教養人以上の文化的存在感を示しています。もっとも、後世の賛美的記述は誇張を含む可能性もあるため、文人として一定以上の評価を受けていた程度にとどめて理解するのが安全です。 

藤原宇合が歴史の表舞台に出た過程

宇合が大きく名を上げた最初の機会は、716年に遣唐副使に任じられ、翌717年に唐へ渡ったことでした。これは若くして国際使節団の中枢に組み込まれたことを意味します。帰国後は常陸守となり、さらに安房・上総・下総の按察使を兼ねました。地方行政の監督と広域的な統治実務を経験したことは、後の軍事・防備任務につながる重要な下積みでした。 

常陸在任は、宇合の文学的・行政的ネットワーク形成にも影響したとみられます。奈良県立万葉文化館の高橋虫麻呂の項目では、虫麻呂は養老三年以降常陸国司であった宇合の部下とみられ、『常陸国風土記』の資料収集にも関与したと考えられています。また、鹿嶋市の文化財解説では、『常陸国風土記』を宇合が完成させたとする説が有力とされています。もっとも、風土記編纂者の特定は決着していないため、ここは「有力説」にとどめるべきです。 

次の転機は、神亀元年の蝦夷反乱に際して持節大将軍に任じられたことです。さらに、726年には知造難波宮事として難波宮の造営を担当しました。軍事と宮都建設という国家事業を連続して任されている点から、宇合が実務型の有能官僚として朝廷内で信頼を高めていたことがうかがえます。731年には参議に昇り、ここでようやく政治の最前線に本格参入しました。 

決定的な局面は、やはり長屋王の変です。奈良県立図書情報館の展示解説によれば、729年2月10日、長屋王に左道の嫌疑がかけられ、宇合らが邸宅を包囲しました。この事件後に藤原氏の発言力は大きく増し、同年の光明子立后へとつながります。宇合はこの時点で、単なる有能官僚ではなく、王権再編の実働部隊として歴史の前面に出たと言えます。 

藤原宇合は何をした人か

政治・統治上の功績

宇合の政治・統治上の功績は、地方行政と中央制度運営の両方を経験した点にあります。常陸守・按察使として地方統治を担い、のちに式部卿として中央の儀礼・人事を扱い、参議として政策決定にも参加しました。中央と地方の両面に通じた官人であったことが、宇合の大きな特徴です。奈良朝では、こうした総合型官僚は国家運営上きわめて重要でした。 

難波宮造営への関与も重要です。知造難波宮事として宮都整備に携わったことは、単に建設を担当しただけではありません。難波は外交・物流・行幸の要地であり、宮の整備は国家の可動性そのものに関わる事業でした。宇合の歌に、難波が「都びた」と詠まれていることからも、彼自身がこの事業を政治的・文化的な意味を持つものとして自覚していたことがうかがえます。 

軍事上の功績

宇合は、奈良時代の貴族としては比較的はっきりと軍事経験が確認できる人物です。神亀元年、蝦夷反乱に対して持節大将軍として派遣され、翌年にも征夷将軍として記録に現れます。近年の東北史研究でも、724年の征討派遣に宇合が位置づけられており、北方経営初期の重要局面で彼が軍事指揮を執ったことは確度が高いです。 

ただし、この遠征を完全な勝利とみなすのは慎重であるべきです。朝廷は宇合の功績を評価して昇叙しましたが、北方経営そのものはこの後も長期にわたって不安定で、蝦夷支配が宇合の時点で決着したわけではありません。したがって重要なのは、宇合が東北経営の初期段階を担った点であって、東北を平定しきったとまでは言えないことです。 

外交・対外防備上の功績

遣唐副使としての入唐経験は、宇合の官歴で見落とせない要素です。唐は当時の東アジアで圧倒的な制度先進国であり、そこへの使節参加は高度な学識と実務能力を示します。帰国後に地方統治、軍事、儀礼行政へと活躍の場が広がる流れを見ると、この海外経験は宇合の評価を高めたと考えられます。 

さらに、732年に西海道節度使となったことは、宇合の役割が北方だけでなく西方防衛にも及んでいたことを示します。コトバンクの世界大百科事典項目によれば、宇合在任中には西海道諸国の対外防備に関する警固の式が作られたとされます。これは、朝鮮半島情勢をにらんだ西国警備の制度化に宇合が関わったことを意味し、軍事と行政の接点で働いた彼の典型的な功績です。 

文化・文学への影響

宇合は、『万葉集』に短歌六首、『懐風藻』に漢詩六首を残した文人でもあります。奈良県の一般向け解説でも、宇合は詩人・歌人として紹介されており、官人でありながら文学活動でも独自の位置を占めています。とくに、和歌と漢詩の双方に確かな足跡を残している点は、奈良時代知識人の国際性と二言語文化を体現しています。 

宇合と高橋虫麻呂の関係も、この文化的役割を考えるうえで重要です。万葉文化館は、虫麻呂が宇合の部下であったとみられることを示しており、西海道節度使として赴任する宇合を送る歌が『万葉集』に残っています。これは、宇合が文学を楽しむだけの人ではなく、周囲に文化的ネットワークを形成できる人物でもあったことを示します。 

思想・性格・判断の特徴

宇合の思想や性格を直接語る史料は限られますが、文学作品からうかがえる傾向はあります。土佐朋子の研究は、『懐風藻』所収の「悲不遇」を、単なる地方勤務への不満表明ではなく、「賢者」と「明君」の関係をめぐる知識人としての自己定位の試みとして読み直しています。つまり宇合は、自分をただの官僚ではなく、学識と徳を備えた「賢者」としてどう位置づけるかを意識していた可能性があります。ここは解釈を含みますが、有力な読みです。 

同時に、その詩に「不遇」が前面に出ることは、宇合が地方任務の連続を手放しで栄光とみなしていたわけではないことも示唆します。唐への渡航、常陸守、蝦夷遠征、西海道節度使と、確かに重い任務は多いのですが、それは中央政治のど真ん中からしばしば離れる経歴でもありました。宇合は実務に強い一方で、自らの才覚に見合う承認を求める自意識も持っていたとみることができます。これは性格断定ではなく、作品から導ける慎重な推測です。 

判断の特徴としては、制度官僚的でありながら軍事も辞さない実務優先型と言えます。長屋王の変で真っ先に動いたのが宇合だった可能性が指摘されることからも、緊急局面で執行役に回る性格があったのかもしれません。ただし、この点は一次史料の行間をどう読むかで評価が分かれるため、行動力があったとまでは言えても、宇合が陰謀の首謀者だったと断定するのは行き過ぎです。 

人間関係とライバル

宇合の人間関係の中心は、まず父・不比等と兄弟たちです。武智麻呂・房前・麻呂と並ぶ四兄弟の一人として、宇合は藤原氏の家格形成に参加しました。また、異母妹の光明子が聖武天皇の皇后となったことは、宇合にとって政治的追い風でした。宇合個人の能力だけでなく、藤原家の外戚ネットワークが彼の上昇を支えたことは間違いありません。 

一方で、長屋王との関係は単純な敵対だけではありません。『懐風藻』には、長屋王宅の宴で詠まれた宇合の詩があり、両者に文化的な接点があったことが確認できます。つまり宇合は、のちに政治的に倒す側へ回る相手と、以前には同じ文雅の空間を共有していたのです。ここに奈良朝貴族政治の複雑さがあります。友情と政争がきれいに分かれていない点が、この時代の人間関係の難しさです。 

部下・周辺人物として重要なのは高橋虫麻呂です。虫麻呂の作品群の一部が宇合との関わりの中で生まれたとみられることから、宇合は文化的パトロンに近い役割も果たしていた可能性があります。政治家としての宇合だけを見ると冷たい実務家に見えますが、文学者や官人を引きつける文化的器量も持っていたのでしょう。もっとも、これは作品伝来状況からの推測を含みます。 

家族面では、子に広嗣、良継、百川らがいます。宇合の没後、式家は波乱を経験しながらも、良継や百川の代に再び大きな政治力を持ちます。宇合一代で終わらず、子孫が奈良後期から平安初期の政局に強い影響を与えた点は、彼を「家祖」として評価するうえで重要です。 

失敗・限界・批判点

宇合の最大の批判点は、やはり長屋王の変への関与です。奈良県立図書情報館の解説では、宇合らが長屋王邸を包囲したことが明記されており、この一点は史料上かなり確実です。しかし、その先にある「宇合がどこまで主導したのか」「嫌疑は本当に有効だったのか」「自尽は命令だったのか」という問題は、研究上なお確定していません。高重進の論考も、『続日本紀』の文言解釈次第で「自尽を命じた」「自尽させた」「自ら自尽した」という理解が分かれることを示しています。つまり、宇合の責任は重いが、責任の中身は単純ではありません。 

もう一つの限界は、宇合の軍事・防備の仕事が、国家課題の最終解決には至っていないことです。蝦夷問題はその後も続き、西海道防備も恒久的安定には程遠い状態でした。宇合は多方面で有能でしたが、時代そのものが不安定であり、個人の手腕だけで片づく条件ではありませんでした。したがって、宇合を「国家再建の英雄」とみなすのも、「失政の象徴」とみなすのも、どちらも単純化しすぎです。 

また、宇合の自己認識には「不遇」意識が見える一方、現実には高位高官に達しているため、後世には「本当に不遇だったのか」という疑問も出されています。土佐の研究も、従来の被冷遇像を相対化しています。これは宇合に対する批判というより、本人が残した文学表現をどう読むかという問題ですが、英雄化にも被害者化にも慎重であるべきだという点では、重要な限界認識と言えます。 

晩年・死因・最期

宇合の晩年は、参議・式部卿・大宰帥として中央と西海道防備をつなぐ重職にある時期でした。734年には正三位となり、政治的にはかなり高い位置に達しています。これは、宇合が730年代半ばには藤原氏の中でも有力中枢にいたことを示します。 

最期については、737年8月5日に薨去したことは確度が高い事実です。死因は通説として天然痘とされます。奈良文化財研究所の解説や近代疫学研究は、735〜737年の疫病流行を天然痘とみなし、そのさなかに藤原四兄弟が相次いで没したと説明しています。ただし、個々の薨伝が現代医学的診断名を直接書くわけではないため、厳密には流行状況から天然痘とみるのが通説と言うのが最も正確です。 

宇合の死後、藤原四兄弟は同じ疫病流行の中でほぼ壊滅し、政局は大きく動きます。橘諸兄が大納言就任へ進む流れが研究上指摘されており、四兄弟の連続死は、宇合個人の死を超えて、奈良朝政治の権力配置そのものを変える事件でした。 

後世への影響と評価

宇合の後世への影響は、第一に「式家の祖」としての家格形成です。宇合の子孫からは、奈良後期の政局で重要な位置を占めた藤原良継、藤原百川らが出ました。とくに百川は光仁・桓武期の政治で大きな役割を果たした人物として知られ、宇合の系統は平安初期まで確かな影響力を持ち続けます。宇合の意義は、一代の業績だけでなく、式家という政治勢力の土台を作った点にもあります。 

第二に、後世の記憶において宇合は「文と武を兼ねた官人」として表象されました。立命館大学アート・リサーチセンターの「前賢故実」関連資料では、宇合は古典に通じ、武事に練達し、文才がある人物として描かれています。もちろん、これは中世・近世以降の理想化を含む後世表象ですが、宇合が「多才な古代官人」として記憶されたこと自体は注目に値します。 

現代の一般的イメージでは、宇合は武智麻呂や房前ほど単独で知られる人物ではなく、長屋王の変や藤原四兄弟の一人として触れられることが多いです。しかし近年の研究では、外交・地方行政・軍事・文学を横断する人物としての厚みが見直されています。つまり、従来は事件の脇役に見えがちだった宇合が、いまは奈良国家の複合的な運営者として読まれつつあるのです。 

研究史・史料状況・論争点

宇合研究の基礎史料は、『続日本紀』『万葉集』『懐風藻』です。官歴や長屋王の変への関与、晩年の官職、没年などは、これらに依拠して比較的安定して復元できます。したがって、遣唐副使、常陸守、持節大将軍、知造難波宮事、参議、西海道節度使、737年没といった事項は、確度が高い情報です。 

一方で、生年、幼少期、性格、常陸国風土記や肥前国風土記への関与の程度は、確度が中程度以下です。生年は後世史料からの逆算に依存しますし、風土記編纂への関与も有力説ではあっても確定ではありません。奈良県立万葉文化館は関与したかと慎重に記し、鹿嶋市の解説も有力説としています。こうした書き方の差に、研究現場の慎重さが表れています。 

さらに論争点として大きいのが、長屋王の変の解釈です。高重進の論考が示すように、王の自尽をめぐる『続日本紀』の文言は解釈が分かれます。また、皇學館大学の大友裕二の研究要旨は、「藤原四子体制」や「橘諸兄政権」といった通説的な政権把握そのものを再検討対象にしています。つまり、宇合を「藤原四子政権の一員」と説明するのは便利ではあるものの、それ自体が現代研究では見直しの対象なのです。ここは確度が中程度の論点です。 

史料の偏りにも注意が必要です。『藤氏家伝』は飛鳥・奈良期研究に重要な史料ですが、現存部分は鎌足・貞慧・武智麻呂の伝で、宇合その人の伝は残っていません。したがって、藤原氏側の自己表象から宇合を直接読むことは難しく、むしろ正史や文学作品から迂回して人物像を立てるしかありません。これは宇合研究の難しさの一つです。 

まとめ

藤原宇合を一言で説明するなら、奈良時代前期における「制度国家の実務を支えた多面的官人」です。彼は遣唐副使として東アジア世界に接し、地方行政を担い、蝦夷征討と西海道防備に関与し、難波宮造営を進め、中央では式部卿・参議として儀礼と政治を扱いました。その意味で、宇合は奈良国家の運営を複数の現場で支えた人物です。 

ただし、宇合は無垢な功臣ではありません。長屋王の変に深く関わったことで、政争の当事者という重い影も背負っています。また、彼の評価は、文学作品の読解や政権構造の捉え方によって揺れます。だからこそ、宇合は「偉人」か「悪人」かで片づけるより、奈良朝の国家形成と権力闘争の交差点に立った人物として理解するのが適切です。他者に説明するなら、「藤原宇合は、奈良時代の藤原氏の中核で、政治・軍事・文化にまたがって活躍した一方、長屋王の変にも関わった、評価の分かれる有能官僚です」とまとめると伝わりやすいでしょう。

よくある疑問Q&A

Q.藤原宇合は何をした人ですか。
遣唐副使、常陸守、蝦夷征討の持節大将軍、難波宮造営責任者、参議、西海道節度使などを歴任した奈良時代前期の上級官人です。政治・軍事・文化の三分野に足跡を残しました。 

Q.藤原宇合はなぜ有名なのですか。
藤原式家の祖であることに加え、長屋王の変への関与、蝦夷征討、そして『万葉集』『懐風藻』に作品を残した文人である点が重なるためです。 

Q.藤原宇合の最大の功績は何ですか。
一つに絞るなら、地方統治・軍事・儀礼行政をまたぐ総合的な国家実務を担ったことです。とくに常陸統治、蝦夷征討、難波宮造営、西海道防備は重要です。 

Q.藤原宇合の失敗や問題点は何ですか。
最大の問題点は長屋王の変への関与です。ただし、どこまで主導したのか、自尽がどのように強制されたのかは研究上なお議論があります。 

Q.藤原宇合の死因は何ですか。
通説では735〜737年の疫病流行の中で天然痘により死亡したと考えられています。ただし、厳密には流行状況からの復元を含むため、「通説では天然痘」と表現するのが安全です。 

Q.藤原宇合は文学者でもあったのですか。
はい。『万葉集』に短歌六首、『懐風藻』に漢詩六首を残した歌人・詩人です。高橋虫麻呂との関係も指摘されています。 

Q.藤原宇合と長屋王の関係は何ですか。
政治的には長屋王の変で対立する側に立ちましたが、文学史料には長屋王宅の宴で詠んだ宇合の詩も見えます。文化的交流と政治的対立が同居していた関係です。 

Q.藤原宇合の評価が分かれるのはなぜですか。
有能な実務官僚・文人としての功績が大きい一方、長屋王の変での役割に道義的・政治的な問題があるからです。加えて、史料解釈と政権構造の捉え方が研究者の間で分かれています。 

Q.藤原宇合は藤原氏の中でどんな位置にいますか。
不比等の三男で、藤原四兄弟の一人、そして式家の祖です。子孫から良継・百川らが出て、式家は奈良後期以降も大きな政治的影響力を持ちました。 

参考

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