藤原麻呂は、奈良時代前期に朝廷で活動した公卿で、藤原不比等の四男、藤原氏四家の一つである京家の祖として知られる人物です。官職としては左右京大夫、兵部卿、参議などを務め、平城京の行政と治安、さらに東北の蝦夷政策にも関わりました。知名度では兄たちの武智麻呂・房前・宇合に及びませんが、長屋王の変後の権力再編、聖武朝の実務運営、そして天平九年の東北派遣という要所で存在感を示した人物です。
また、藤原麻呂は何をした人かと問われると、単に「京家の祖」と言うだけでは不十分です。近年は、平城京の麻呂邸に関わる木簡の研究によって、彼の家政機関が天皇・皇后周辺の物流や行幸実務にも関わっていたことが分かってきました。そのため、現在の研究では、麻呂は単なる家祖や脇役ではなく、奈良朝国家の中枢実務を担った行政官として見直されています。
藤原麻呂とは何者か
史料上、麻呂の没年は天平9年7月13日で、年齢は43とする系統と44とする系統があります。現在の一般的な整理では、持統9年生まれ、すなわち西暦695年生まれとみるのが有力です。『続日本紀』は没年と官位を伝えますが生年を明記しておらず、生年の復元は『公卿補任』や『尊卑分脈』など後世資料を併用して行われています。したがって、生年は確度が高い通説ではあるものの、一次史料が直接示す情報ではありません。
肩書きとして重要なのは、左右京大夫、兵部卿、参議です。左右京大夫は平城京内部の行政・司法・警察に関わる京職の長官であり、兵部卿は軍政をつかさどる兵部省の長官、参議は太政官で政策審議に加わる令外官です。麻呂はこの三つを重ねることで、都の統治、軍事行政、中央政務の接点に立つ人物になりました。京家という家名自体も、麻呂が左京大夫を兼ねたことに由来すると辞典類は説明しています。
別表記としては「藤原朝臣麻呂」のほか、「万里」と書かれる例があり、『懐風藻』では五言詩五首が載ります。万葉文化館のデータベースでは、万葉集に三首の短歌が確認され、通称として「藤原大夫」「藤原麻呂大夫」「まへつきみ」なども見えます。つまり麻呂は政治家であると同時に、奈良朝貴族文化の担い手でもありました。
藤原麻呂が生きた時代背景
麻呂が生きた奈良時代前半は、律令国家が形を整えつつも、実際には皇親勢力・外戚勢力・有力氏族の均衡で政治が動いていた時代です。藤原不比等は、自身の娘の宮子を文武天皇の妃にし、その子である首皇子がのちの聖武天皇になります。不比等の死後も、その血縁は藤原氏の大きな政治資本であり続けました。奈良県の公的解説も、不比等の死後に首皇子が聖武天皇として即位し、皇室との結びつきを背景に藤原一族の発言力が強まったと整理しています。
ただし、藤原氏が常に一枚岩で優勢だったわけではありません。不比等の死後は長屋王が左大臣として太政官の中心に立ち、皇親勢力の重みがなお強く残っていました。ハーバード系研究者ホートンの論文でも、聖武の即位は藤原側の勝利であった一方、長屋王が左大臣として政務の均衡を取り戻したこと、そして両陣営の対立が720年代後半に深まったことが指摘されています。
この対立が爆発したのが長屋王の変です。長屋王は皇位継承と皇后問題で藤原側と鋭く対立し、729年に「左道を学び国家を傾けようとした」という告発によって自害に追い込まれました。近年の英語圏研究では、この「呪詛・黒魔術」型の罪状は藤原派が捏造したという理解が現在のコンセンサスだとまで述べられており、事件をめぐる見方はかなり批判的です。
一方で、麻呂の活動時期は対外・地方政策の緊張も増した時代でした。東北では蝦夷支配の拡大、北九州では対外交通の緊張、都では人口集中と物流拡大が進み、こうした環境の中で京職や兵部省の実務は重くなっていきます。麻呂が後に都の統治と東北派遣の双方を担うのは、この時代構造そのものを反映しています。
出自・家系・幼少期・教育
麻呂は藤原不比等の四男です。ただし、兄の武智麻呂・房前・宇合とは母が異なります。万葉文化館の人物データベースでは、母は鎌足の娘である五百重娘とされますが、その細かな家系関係や、五百重娘が不比等の異母妹だったという話は、主に『尊卑分脈』のような後世史料に依拠します。したがって、麻呂の出自には古代貴族特有の複雑な家族関係が絡むものの、細部は後世資料に頼らざるをえません。
幼少期について一次史料は乏しく、確実に言えることは多くありません。木本好信は、麻呂が大原で育ち、平城遷都によって生活の場を平城京へ移した可能性が高いこと、十代後半には内舎人になった可能性が高いことを論じています。ただし、これらは法制史と経歴復元を組み合わせた推定であり、「史料上確認できる範囲では」確定事項ではありません。
史料上、麻呂が確実に姿を現すのは養老元年11月で、美濃介としての在任が確認できます。木本は、美濃国が軍事的にも重要な国であり、ここへの任官は若い麻呂にとって地方行政の実地経験だったとみています。養老改元に伴う叙位で、麻呂は正六位下から従五位下に昇り、23歳前後で受爵したことになります。これは兄たちと比べても比較的早い出世でした。
教育については、直接の師弟関係を示す史料は乏しいです。ただし、『懐風藻』に漢詩が収められていること、万葉集にも歌があることから、貴族官人として必要な漢文・詩歌教養を備えていたことはまず確かです。問題は、その教養がどの程度本人の個性を示すかで、後述するように、詩の内容をそのまま性格診断に使うのは慎重であるべきです。
藤原麻呂が歴史の表舞台に出た過程
養老5年721年、麻呂は従四位上へ一挙に五階昇叙され、同年6月に左右京大夫に任じられます。これは不比等の死後、長屋王を中心とする新体制の中で、藤原四子がそれぞれ重要官職を占めていく流れの一環でした。木本は、武智麻呂の中納言、房前の参議、宇合の式部卿と並んで、麻呂の左右京大夫就任を「藤原氏発展への重要な一歩」と評価しています。
左右京大夫は、都の戸籍・僧尼名簿・訴訟・百姓撫育など多岐の職務を持つだけでなく、京中の警備や非違の検察のための兵士を管掌する権限も持っていました。木本は、後世の規定を参照しつつ、京職が相当規模の兵士を動かしうることを指摘しています。ここが重要で、麻呂の基盤は目立つ思想や大改革ではなく、首都統治の現場そのものにありました。
神亀3年726年、麻呂は正四位上に昇ります。木本は、この年の白鼠・白亀の献上記事に麻呂の関与を読み取り、聖武朝を称揚する政治的演出の一端だった可能性を論じます。ただし、これはあくまで史料の読みを踏まえた有力解釈であり、麻呂個人がどこまで主体的に仕掛けたかは断定できません。
表舞台への本格的な登場は、やはり長屋王の変の前後です。問題は、麻呂の行動が『続日本紀』に直接見えにくいことです。兵を率いて長屋王邸を包囲したのは宇合で、首謀者をめぐっても武智麻呂中心説と房前を含む協調説があり、麻呂の役割ははっきりしません。ただし、事件後の論功行賞で麻呂が従三位へ昇ったことから、何らかの重要な貢献があったと考える研究者は少なくありません。
さらに近年の研究では、告発者が左京の人であったことから、左京大夫である麻呂が告発をまず受け取った可能性も論じられています。これも確定説ではありませんが、もしそうであれば、麻呂は事件後の受益者であるだけでなく、発端部分でも重要な位置にいたことになります。
藤原麻呂は何をした人か
麻呂の主な歴史的役割は、テーマ別にみると、都の統治、政変後の中央政務、東北政策、宮廷実務、文化的遺産の五つに整理できます。以下では、何をしたのか、なぜ重要か、当時にどんな影響があったか、後世に何が残ったかを順に見ます。
まず政治・統治上の役割です。左右京大夫として麻呂は平城京の行政と警察に深く関わりました。平城京は律令国家の首都であり、そこを管理する京職は単なる市役所ではなく、都の秩序維持そのものを担う機関でした。麻呂がここを長く押さえたことは、藤原氏が首都の秩序維持を通じて政治的存在感を高めたことを意味します。派手な制度改革ではありませんが、奈良朝国家の日常運営を支えたという点で重要です。
次に政変後の中央政務への参加です。天平3年731年、麻呂は宇合らとともに参議に加わり、兵部卿も務めます。参議の制度化そのものがこの時期の政治構造変化を示しており、麻呂の参入は、長屋王の変後に藤原側の政治的比重がさらに増したことを示します。木本は、宇合と麻呂の参加によって武智麻呂政権の領導力が増したと評価しています。
三つ目は軍事・東北経営です。天平9年正月、麻呂は陸奥持節大使として東北へ派遣されます。これは、出羽柵の北方移設と雄勝郡建郡を受け、陸奥国府と出羽側を結ぶ直路を確保する構想に応えたものでした。麻呂は大野東人と協議し、常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野の六か国から徴発した騎兵一千人を編成して、海道・山道の二方向で道を開き、五つの柵に兵を分置しつつ、多賀城の鎮撫態勢を整えました。これは単なる遠征ではなく、交通路・城柵・服属集団の運用を含む国家境界政策でした。
この東北派遣で興味深いのは、麻呂が強硬一辺倒ではなかった点です。『続日本紀』に引用された上奏文を木本が検討したところによれば、麻呂は、現地情勢が平穏で農作期でもあることから、徴発兵を解放して拙速な大規模出兵を避けるべきだと天皇に奏しています。自らを軍機に明るくないとしつつ、大野東人の現地判断を信頼し、慰撫と現実的判断を優先した姿勢が見えます。ここに見えるのは、無条件の武断ではなく、実務官としての慎重さです。
四つ目は宮廷実務と物流への関与です。奈良文化財研究所の調査と、それを踏まえた市大樹・木本らの整理によれば、麻呂邸関連の木簡は、麻呂家の家政機関が中宮職や皇后宮職、兄武智麻呂の家政機関と人的に結びつきながら活動していたことを示します。天平8年の芳野行幸でも、麻呂家の家政機関は、食糧・調度品・運搬の支払いなどに関わるセンター的役割を果たしていた可能性があります。これは、麻呂が単なる個人貴族ではなく、宮廷物流ネットワークの結節点にいたことを意味します。
五つ目は文化面の遺産です。麻呂自身は万葉集の歌人であり、懐風藻にも詩が残ります。さらに、その嫡子の藤原浜成は宝亀3年772年に成立した『歌経標式』の著者で、この書は現存最古の歌学書として知られます。つまり、麻呂個人の政治的家系である京家は大きく栄えなかったものの、文化史の面では浜成を通じて後世に確かな足跡を残しました。
藤原麻呂の思想・性格・判断の特徴
麻呂の性格を知る材料として、よく引かれるのが『懐風藻』と『尊卑分脈』です。『懐風藻』の詩では、名利に淡く、自然や宴を楽しむ姿勢が表現され、木本も後世系譜の「琴酒を事とするのみ」という人物像とあわせて、兄たちほど権勢欲や上昇志向が強くなかった可能性を示唆しています。少なくとも、武智麻呂や房前のように家全体を押し上げる政治意志を前面に出す人物としては描かれていません。
ただし、これをそのまま「穏やかな文化人」と断定するのは危険です。第一に、漢詩は当時の教養的表現であって自己演出を多く含みます。第二に、『尊卑分脈』は後世史料です。そのため、麻呂を「出世に関心がない善人」と単純化するのではなく、そうしたイメージが後に形成された可能性も含めて考えるべきです。研究上より安全なのは、麻呂には文雅的自己表現があり、同時に現実には京職・兵部卿・参議を兼ねる重い実務を担っていた、という二面性を押さえることです。
判断の特徴として注目されるのは、東北派遣で見せた現実主義です。麻呂は自分の軍事的限界を認め、現地将の知見を重視し、農事や兵站の都合を踏まえて進軍停止を上奏しました。ここには、無理な武功を急ぐ英雄型ではなく、情報と状況に基づいて動く行政官型の判断が見えます。歴史ファンがイメージしやすい武人像とは少し違うところが、麻呂の特徴です。
藤原麻呂の人間関係とライバル
家族関係では、父は藤原不比等、兄は武智麻呂・房前・宇合、異母姉には宮子と光明子がいます。宮子は聖武天皇の母、光明子は聖武の皇后ですから、麻呂は宮廷の最上層に極めて近い一族にいたことになります。この血縁ネットワークこそが、麻呂を奈良朝政治の表舞台へ押し上げた最大の背景でした。
兄弟関係では、研究上とくに武智麻呂との近さが注目されます。木本は、麻呂邸出土木簡や婚姻関係から、長兄の武智麻呂が末弟の麻呂をかわいがり、関係は良好だったとみています。実際、麻呂の長女百能は武智麻呂の嫡子豊成に嫁いでおり、家同士の結びつきも強かったと考えられます。
一方、政治上の最大のライバル陣営は長屋王です。もっとも、麻呂個人が長屋王と直接対立した場面は史料に乏しく、表立った対決者として見えるのは武智麻呂や宇合です。麻呂はむしろ、京職という立場から長屋王排除の政治的・治安的基盤を支えた可能性がある人物として位置づけるほうが実態に近いでしょう。
また、万葉集の贈答歌をめぐって、大伴坂上郎女との関係も研究話題になってきました。ただし、歌のやりとりが恋愛・婚姻に直結するかは議論があり、木本も結婚にはつながらなかったらしいと慎重に述べています。ここは一般向け記事で断定しがちな点ですが、史料上は不明です。
藤原麻呂の失敗・限界・批判点
麻呂の限界としてまず言えるのは、兄たちに比べて独自色の強い政策や事績が見えにくいことです。武智麻呂には政権主導、房前には内廷との結びつき、宇合には軍事遠征の鮮明な印象がありますが、麻呂は長く「四子の一人」として埋没してきました。これは、実際に彼の権力基盤が相対的に弱かった可能性を示します。
次に、長屋王の変との関わりです。現在では、長屋王への罪状は藤原派による政治的排除だったとみる見方が有力であり、その政変後に麻呂が昇進した事実は、麻呂を無垢な観察者とはみなしにくくします。具体的な行動が不明だからこそ、麻呂は「積極的首謀者ではないが、結果として政治排除の受益者であり、一定の協力者でもあった可能性が高い」という、やや厳しい評価を免れません。
さらに、京家そのものの伸び悩みも、麻呂の政治的限界と無関係ではありません。木本は、嫡子浜成の母系が因幡国の郡領層で、兄たちのような有力氏族との婚姻に比べ見劣りした点を、京家が発展しづらかった要因の一つとして論じています。辞典類も、浜成が女婿の氷上川継事件に連座した後、京家は四家の中で最も早く衰えたと説明しています。もちろん、これをすべて麻呂個人の失敗に帰すことはできませんが、家の将来を左右するほど強い政治的・婚姻的基盤を築けなかったのは事実です。
藤原麻呂の晩年・死因・最期
晩年の麻呂は、兵部卿・参議として中央にいながら、天平9年には陸奥持節大使として東北へ下るという大きな任務を担いました。これは彼にとって初めて本格的に都を離れた遠隔地派遣であり、キャリアの最盛期に相当します。東北派遣は成功一辺倒ではなく、進軍と鎮撫の両方をにらみながら、現地判断を朝廷へ上奏する重い責任を伴っていました。
しかし、帰京後まもなく麻呂は天平9年7月13日に没します。木本は、房前がすでに4月17日に死亡していたこと、天然痘の潜伏期間からみて、麻呂は帰京後ほどなく感染したのだろうと推定しています。死因は史料と研究の双方からみて、735年から737年に広がった天然痘流行によるものとみてよいでしょう。
この疫病は個人の悲劇にとどまりませんでした。『続日本紀』の記述を引く木本は、737年春に疫瘡が大流行し、公卿以下百姓まで数えきれないほど死んだと伝えています。麻呂の死後、武智麻呂、宇合も相次いで没し、藤原四子がそろって消えたことで、従来の政治構造は崩れます。疫病は日本全体で人口の四分の一から三分の一ほどを失わせた可能性があるとされ、国家財政・労働力・政務運営に深刻な打撃を与えました。
藤原麻呂の後世への影響と評価
後世への直接的な政治影響という点では、麻呂は北家や南家の祖たちほど目立ちません。藤原氏本流の繁栄は後に北家が担い、奈良時代後半には仲麻呂や橘諸兄の時代が来るため、麻呂個人は歴史叙述の中心から外れやすい人物でした。そのため教科書的理解でも、「藤原四子の末弟」「京家の祖」という程度に圧縮されがちです。
それでも、麻呂の歴史的重要性は小さくありません。第一に、京家の祖として藤原氏の四分岐を完成させたこと。第二に、平城京の中枢行政と東北経営をつなぐ官人として働いたこと。第三に、考古学資料の増加によって、彼の家政機関が朝廷実務のハブだったことが見えてきたことです。現代の研究では、麻呂の重要性は後世に大きな権門を残したからではなく、奈良朝国家がどう動いていたかを具体的に見せる人物だからと理解したほうが適切です。
文化史の面では、万葉集・懐風藻に作品を残すことに加え、子の浜成を通じて歌学史に影響が及びました。政治家としての京家は早く衰えましたが、文化面での系譜は消えませんでした。この政治的には弱いが、文化史上は無視できないという点も、麻呂評価の大事なポイントです。
藤原麻呂をめぐる研究史・史料状況・論争点
麻呂研究の難しさは、一次史料が偏っていることにあります。基礎となるのは『続日本紀』ですが、そこでは政治的出来事の中でしか麻呂が見えません。これに対し、万葉集や懐風藻は文化的自己表現を示し、木簡は実務の痕跡を示します。つまり、麻呂の人物像は、政治史料・文学史料・考古資料を横断しないと立体化しません。
確度の高い情報としては、麻呂が不比等の四男であること、養老元年に美濃介として見えること、養老5年に左右京大夫となること、天平3年に参議・兵部卿となること、天平9年に陸奥持節大使として派遣されたこと、同年7月13日に死去したことです。これらは『続日本紀』や、それを踏まえた学術整理で相互確認できます。
確度が中程度の論点は、長屋王の変での具体的役割、聖武即位への関与、そして「藤原四子体制」の実態です。長屋王の変では、麻呂の行動が史料に直接見えない一方、昇進や京職の権限から大きな関与が推測されます。また、研究史上は「四子が協力して政権を握った」という通説と、「実態は武智麻呂主導で、房前や他兄弟との関係はもっと複雑だった」という再検討が並立しています。近年も木本の著作や論文集が、麻呂や四子論を継続的に論じています。
確度が低い、あるいは慎重に扱うべき情報は、幼少期の細部、五百重娘との家族関係の心理的影響、詩文から読む「性格」の断定、大伴坂上郎女との婚姻の有無です。これらは後世史料や解釈の比重が大きく、歴史叙述では「有力説では」「一説には」「後世史料によれば」といった留保が必要です。麻呂研究は、目立つ英雄譚が少ない代わりに、史料批判の面白さがよく出る分野だと言えます。
藤原麻呂をどう理解すべきか
藤原麻呂を理解するうえで大切なのは、彼を「有名ではない兄弟の一人」で終わらせないことです。麻呂は、長屋王の変前後の政争、都の行政と警備、東北支配の実務、そして天平の疫病による政治崩壊という、奈良時代の重要な転換点を一人の生涯の中で体現した人物でした。
同時に、麻呂は単純な英雄でも悪人でもありません。長屋王排除の体制側にいた可能性が高い一方で、東北経営では現実主義的な判断を見せ、文化人としての顔も持ちます。だからこそ、麻呂は「藤原氏の陰謀家」とだけ断じるのでも、「温厚な文人官僚」とだけ美化するのでもなく、奈良朝国家の実務と権力のあわいにいた官人として理解するのが最も妥当です。これが、他者に説明できる藤原麻呂像の核心です。
よくある疑問Q&A
Q.藤原麻呂は何をした人ですか
平城京の行政・治安を担う左右京大夫、軍政を担う兵部卿、政策審議に加わる参議を務め、さらに天平九年には東北へ派遣されて陸奥・出羽連絡路の整備と蝦夷政策に関わった人物です。京家の祖としても重要です。
Q.藤原麻呂はなぜ有名なのですか
最大の理由は、藤原不比等の子である「藤原四子」の一人で、長屋王の変後の奈良朝政治に参加し、737年の天然痘流行で兄弟とともに没したからです。近年は木簡研究によって、実務官としての重要性も注目されています。
Q.藤原麻呂の最大の功績は何ですか
単独の大改革よりも、都の統治と東北政策の実務を担った点が最大の功績です。とくに東北派遣では、多賀城を拠点に道路開削・兵站配置・鎮撫方針の調整を行いました。
Q.藤原麻呂の失敗は何ですか
明確に麻呂個人の失政として確定できるものは多くありませんが、長屋王排除の政治体制の一角にいたこと、また京家が長期的には四家の中で早く失速したことは、批判的に見られる点です。
Q.藤原麻呂の死因は何ですか
通説では天然痘です。天平9年7月13日に没し、その直後に武智麻呂・宇合も続いて亡くなり、藤原四子の時代は終わりました。
Q.藤原麻呂は英雄ですか それとも悪人ですか
どちらか一方ではありません。長屋王の変の受益者である可能性が高い一方、東北経営では慎重で現実的な判断を示し、文化的教養も持つ官人でした。時代背景の中で多面的に評価すべき人物です。
Q.藤原麻呂と長屋王の関係は何ですか
政治的には対立陣営です。直接対決する場面は史料上はっきりしませんが、麻呂は京職の長として長屋王排除後に昇進しており、事件に何らかの形で関与した可能性が高いとみられます。
Q.藤原麻呂の評価が分かれるのはなぜですか
行動が一次史料に詳しく残らず、後世系譜や詩文、木簡、研究者の解釈を組み合わせて像を復元しなければならないからです。とくに長屋王の変での役割と、「藤原四子体制」の実態をどう見るかで評価が変わります。
Q.藤原麻呂の子孫はどうなりましたか
政治的には京家は早く衰えましたが、子の藤原浜成は『歌経標式』を著し、日本歌学史に大きな足跡を残しました。京家は政治より文化の側で記憶されやすい家系です。
参考
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木本好信・2011「藤原麻呂の後半生について―長屋王の変以後の武智麻呂との関係を中心に―」『甲子園短期大学紀要』29・DOI:https://doi.org/10.24699/koshient.29.0_1・閲覧日:2026年06月26日
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