パスポート電子化と顔認証の未来|消えるのは冊子より「旅券を見せる行為」なのか

パスポートが電子化されると聞くと、今の冊子がスマートフォンのアプリに入り、空港では顔だけ見せれば海外へ行ける未来を想像するかもしれません。しかし、2026年8月19日時点で日本が進めている電子化は、そう単純ではありません。日本政府が物理パスポートを廃止すると決めた事実は確認できず、現在の2025年旅券もICチップを搭載した物理旅券です。 

すでに大きく変わっているのは、むしろ本人確認をする場所と方法です。日本では旅券申請をオンラインで行え、空港ではICチップの顔画像とその場で撮影した顔を照合し、共同キオスクや税関電子申告ゲートではVisit Japan Webの情報と組み合わせて手続を進められます。2026年には、訪日前に情報を確認するJESTAの法的枠組みまで成立しました。 

そして国際的には、ICAOがDigital Travel Credential(DTC)の仕様を整備しています。これは単なる旅券の写真やPDFではなく、政府が発行した旅券情報の真正性をデジタルに検証できる資格情報です。ただし、世界の国境で物理旅券の代わりとして自由に使える完成済み制度、という段階にはありません。 

したがって、パスポートの未来を見るうえで重要なのは政府が証明した身元情報をどうデジタルで持ち運び、目の前にいる人を顔などの生体情報でどう結び付け、いつ・どこで・誰が確認するのか。 そこに、本当の変化があります。

パスポート電子化で本当に変わるものは何か

パスポート電子化という言葉には、少なくとも4種類の話が混在しています。ここを分けなければ、「オンライン申請ができるから日本にもデジタルパスポートがある」「IC旅券だからスマホだけで旅行できる」といった誤解が生まれます。

電子化の層何が電子化されるか日本の2026年8月19日時点
申請の電子化旅券を申請する手続全国で新規・切替のオンライン申請が可能。旅券そのものは物理的に交付される。 
旅券内部の電子化冊子内のICチップと電子的な真正性確認実施済み。2025年旅券もICチップ搭載型。 
旅券資格情報のデジタル化DTCなど、真正性を検証可能なデジタル資格情報ICAOで仕様整備中・各国実証あり。日本の正式採用決定は今回確認できず。 
国境手続の電子化顔認証、共同キオスク、事前情報、ウォークスルー日本でもすでに一部実運用。JESTAは法制化済みだが未運用。 

この整理から分かるのは、電子化は一直線の進化ではないということです。申請だけ先にオンライン化することもあれば、物理旅券を使ったまま国境手続だけを顔認証化することもできます。反対にDTCが普及しても、障害時や未対応国への渡航では物理旅券を求められる可能性があります。

パスポート電子化の本質は書類中心から本人中心へ完全に切り替わることではなく、書類の真正性確認と本人確認を分離し、その二つをデジタルに再結合できるようにする変化と表現した方が正確です。

従来は、審査官が旅券を受け取り、「この旅券は本物か」「目の前の人は写真の人物か」を一連の行為として判断していました。ePassportやDTCの世界では、電子署名・PKIが「このデータは正当な発行主体が発行し改変されていないか」という問いを支え、顔照合は「この人がその資格情報の本人か」という別の問いを支えます。ICAOのDTCも、この発行主体によるデジタルな真正性を前提としています。 

だから顔だけで通れるという表現には注意が必要です。見た目には顔しか使っていなくても、その背後では事前に旅券情報や渡航資格を取得している可能性があります。顔が身元情報そのものになるというより、すでに信頼された身元情報を、その場にいる人へ結び付けるインデックスのような役割を強めていると考える方が実態に近いのです。

日本のパスポートはすでにどこまで電子化されているのか

日本では2025年3月24日から、全国で新規申請・切替申請のオンライン化が実施されています。マイナポータルを利用した国内申請ではマイナンバーカードと対応スマートフォンを使え、戸籍情報の電子連携によって、条件を満たせば紙の戸籍謄本を自分で取得・提出する必要もなくなりました。オンライン申請であっても、原則として旅券の受け取りには窓口へ行きます。 

これは大きな行政DXですが、旅券のデジタル化ではなく旅券申請のデジタル化です。マイナポータルを使ったことから、マイナンバー情報が海外の国境管理機関へそのまま送信される、と推測することもできません。外務省が説明しているのは国内の申請・戸籍情報連携です。 

2025年旅券そのものもデジタル化を一段進めていますが、スマホ旅券ではありません。2025年3月24日申請受理分から、顔写真ページをプラスチック基材とし、文字や顔写真をレーザーで形成する偽変造対策を備えたICチップ搭載旅券となり、国立印刷局で集中作成されています。現在有効な従来旅券も有効期限までは使用できます。 

空港側ではさらに別の電子化が進んでいます。入管庁の顔認証ゲートは、旅券ICチップに記録された顔画像と、ゲート内蔵カメラで撮影したその場の顔を照合します。これは典型的な1対1のVerification(本人確認)です。「この人物は巨大な顔データベースの誰か」を探す1対多数Identificationとは違います。 

日本の顔認証ゲートについて特に重要なのは、入管庁がゲートで撮影した顔写真は本人確認の照合にのみ使い、保存しないと明記していることです。また顔画像の照合ができないなどの理由でゲートを利用できなければ、審査ブースで手続を受ける仕組みです。 

これは顔を撮影する=政府がその撮影画像を永久保存するではない好例です。ただし、この事実から日本のあらゆる出入国システムが生体データを保存しないと一般化することもできません。システムごとに取得元・目的・保存条件を確認する必要があります。

自動化ゲートと顔認証ゲートも同一ではありません。従来型の自動化ゲートでは事前登録や指紋照合を利用する仕組みがあり、現在の顔認証ゲートはIC旅券内の顔画像を基準にする方式です。したがって空港の自動ゲートという見た目だけで同じ本人確認方式だと判断してはいけません。 

もう一段先を示しているのが、入管・税関の共同キオスクです。2026年8月19日時点で税関が案内している導入先は成田空港第3ターミナル、羽田空港、関西空港、福岡空港です。Visit Japan Webの二次元コードと旅券を読み取り、旅券情報、顔写真、申告情報、外国人の入国手続では指紋も含め、入管・税関で重複する情報提供をまとめます。IC旅券利用者は、キオスクで撮影した顔とICチップ内の顔画像を照合します。 

共同キオスク後、日本人旅客は配備されているターミナルではウォークスルーゲートで帰国手続を終えることができ、税関検査不要と判断された旅客は電子申告ゲートを顔認証で通過できます。ここでも共同キオスクで撮影した顔写真について、本人確認・ゲート認証に使用後、速やかに削除すると税関が明記しています。 

税関電子申告ゲートは新千歳、成田、羽田、中部、関西、福岡、那覇の7空港で案内されています。電子申告端末ではIC旅券の顔画像とライブ撮影を照合し、ゲートでも歩行中に再度顔写真を撮影しますが、それぞれ使用後に速やかに削除するとされています。 

旅券をなくしたのではなく、一度取得した旅券と人との結び付きを後続プロセスで使いやすくすることで、旅券を手に持って一つひとつ提示する回数を減らしているのです。

顔認証ゲートは何を見て「本人」と判断しているのか

顔認証を理解するには、旅券が本物かと旅券の持ち主が本人かを分ける必要があります。

ePassportのICチップには、顔画像など旅券の身元情報が電子的に格納されます。ICAOのeMRTDの設計では、発行国による電子署名を通じてデータの真正性・完全性を検証できるようにすることが重要です。各国の公開鍵情報を国境側が信頼して検証するための国際インフラがICAO Public Key Directory(PKD)です。 

ここで電子署名は顔が似ているかを判定するものではありません。反対に、顔認証は政府の電子署名そのものを検証するものでもありません。

概念的には、

電子署名・PKI → 資格情報は真正か
顔照合 → その資格情報の人物と目の前の人物は同じか

という役割分担です。

日本の顔認証ゲートでは後者について、ICチップ内の顔画像とその場で取得した画像を比較します。比較対象が旅券によってあらかじめ一人に限定されているので、1対1 Verificationです。 

これに対して1対多数Identificationは、この人はデータベース内の誰かを探します。技術評価上も両者は別問題です。米国NISTのFace Recognition Technology Evaluation(FRTE)も1:1と1:Nを別トラックで評価し、1:Nでは誤って候補を返すFalse Positive Identification Rate(FPIR)や、正しい人物を返せないFalse Negative Identification Rate(FNIR)などを評価しています。 

したがって顔認証は99.9%正確のような一つの数字で国境顔認証全体を説明することはできません。性能はアルゴリズム、閾値、画像品質、撮影条件、登録画像との経過時間、1対1か1対多数か、1対多数なら検索対象人数などによって変わります。NISTも継続的に1:1・1:N・画像品質等を分けて評価しています。 

属性差についても同様です。NISTの大規模評価では多数のアルゴリズムに人口統計学的な性能差が観測されましたが、その大きさや方向はアルゴリズムやデータ、用途に依存します。特定属性なら必ず誤認されると一般化するのも、最新AIなら属性差はないとするのも正確ではありません。 

顔認証が失敗しても、それ自体が入国できないと同義ではありません。少なくとも日本の顔認証ゲートでは、顔画像による本人確認ができないなどゲートを使えない場合は審査ブースで手続を受けます。ここで重要なのは、アルゴリズムの精度だけではなく、エラー時に人間による再審査へ戻れるかです。 

また、顔がパスワードになるという比喩にも限界があります。パスワードは秘密として管理し、漏えいすれば別の文字列へ変更できます。顔は他人から見える身体的特徴であり、ユーザーが自由に再発行できません。個人情報保護委員会も顔特徴データの不変性の高さを安全管理上の重要な性質として挙げています。 

日本法上も、顔の骨格や部位の位置・形状等から特徴情報を抽出し、本人認証が可能となるよう変換した一定の情報は「個人識別符号」に該当します。ここでいう顔画像そのものと、認証用に変換された顔特徴情報は同じ概念ではありません。 

セキュリティ面では、顔認証が高度化しても攻撃リスクがなくなるわけではありません。旅券・ID分野で特に知られる問題の一つが、複数人物の特徴を組み合わせるFace Morphing(フェイス・モーフィング:複数人の顔写真を合成して、それぞれの人物に似た1枚の顔画像を作る技術)です。NISTは2025年、Morph検知技術の運用指針を公表し、信頼できる環境で写真を取得することがリスク低減に有効であり、自動検知にはなお運用上の注意が必要だと整理しています。 

ディープフェイクやPresentation Attack(プレゼンテーション攻撃:顔認証カメラに写真・動画・マスクなどを見せて、本人になりすまそうとする攻撃)への対策も、顔照合アルゴリズムそのものとは別の防御層です。ライブ撮影、画像品質確認、Presentation Attack Detection(写真・動画・マスクなどを使ったなりすましが行われていないかを検知する技術)などを重ねる考え方がありますが、日本の各国境設備が用いる具体的な防御ロジックは公開情報だけでは確認できない部分があります。防御手段があることと、具体的な内部仕様が公開されていることは分けて考える必要があります。 

次の段階は「パスポートを見せない国境」なのか

ここで登場するのが、ICAOのDigital Travel Credential(DTC)です。

DTCは単なるパスポートをスマートフォンで撮影した画像ではありません。ICAOの2026年FALP資料は、DTCをDoc 9303の仕様に適合し、従来旅券を一時的または将来的には恒久的に代替し得る、旅行者の身元のデジタル表現として定義する方向を示しています。 

初期段階のDTCでは、eMRTD/ePassportのICチップにある身元情報・顔画像・発行機関のデジタル署名を基礎とするVirtual Componentを利用する設計が中心です。重要なのは発行国による真正性の連鎖を保ったままデジタルで扱うことです。だからPDFやスクリーンショットではDTCになりません。 

この構造が実用化されれば、旅行者は国境に到着してから初めて旅券を差し出すのではなく、渡航前に信頼できる旅券情報を送信し、国境当局側が一部の確認を前倒しすることができます。到着時には、目の前の人物をDTC内の顔情報と結び付ける作業が中心になり、旅券を読ませるという摩擦を小さくできる可能性があります。これはDTC実証やEU Digital Travel構想が狙う方向です。 

ただし、DTCは2026年8月時点で「世界共通のスマホパスポート完成版」ではありません。

ICAOではDTCの技術仕様自体は先行して整備されてきましたが、2026年4月のFacilitation Panel資料は、DTCをMRTD/eMRTDと同様にAnnex 9の規制枠組みに位置付けるため、2つの標準と1つの勧告方式を追加する提案を扱っています。つまり、技術仕様の存在と国際的な規制・運用の完全な成熟は同じ段階ではありません。 

今回確認した2026年8月19日までの日本の外務省・入管庁公表資料では、日本政府がICAO DTCを採用し、スマートフォン内のDTCを日本旅券の代替として利用可能にすると正式決定した資料は確認できませんでした。したがって「ICAOがDTCを作った→日本もまもなくスマホ旅券になる」という推論はできません。 

日本でDTCとは別に前へ進んだのがJESTA(電子渡航認証制度)です。2026年5月29日に第221回国会で関連改正法が成立し、同年6月5日に公布され、JESTAを設ける法的枠組みが成立しました。一方、2026年8月19日時点では運用開始前で、政府の日本成長戦略は2028年度中の導入を掲げています。 

ここも重要な区別です。JESTAはパスポートそのものではありません。 渡航前に外国人旅行者の情報を確認し、旅行資格を事前に審査する電子渡航認証の層です。DTCは旅行資格情報・身元情報のデジタル化、JESTAは渡航前審査という別の役割を持ちます。

入管庁では2026年に電子渡航認証システムに伴う共同キオスク2.0・ウォークスルーゲート2.0関係の設計・開発調達も掲載されています。しかし、調達されていることは、全機能・全空港・運用開始日が正式決定したことを意味しません。 調達資料は将来のシステム構想を読む材料にはなりますが、正式な運用ロードマップとは区別する必要があります。 

将来のパスポートを見せない国境は、したがって一つの技術では成立しません。DTCだけでなく、渡航認証、旅券情報の事前送信、航空会社の搭乗確認、国境当局によるリスク評価、顔による本人確認、障害時の有人審査などを組み合わせる必要があります。

見えなくなるのは旅券そのものより、旅券を読み取る作業なのかもしれません。

EUや英国では何が始まっているのか

EUを見ると、パスポート電子化という一語では説明できないことがさらに明確になります。

まず、Entry/Exit System(EES)はDTCではありません。EESは2025年10月12日に段階導入を開始し、2026年4月10日にシェンゲン圏の対象国境で全面運用となりました。短期滞在の対象となる非EU国民について、旅券情報、顔画像、指紋、入出国日時・場所などを電子的に記録し、従来の旅券スタンプをデジタルな入出国記録へ置き換える制度です。 

この点は日本の顔認証ゲートと対照的です。日本の顔認証ゲートはそこで撮影した顔写真を保存しないと案内していますが、EESは制度そのものが顔画像・指紋等を記録するデータベースです。したがって「空港の顔認証では撮影画像は保存される/されない」と一般論で答えることはできません。 

EESと別にEUが進めているのがEU Digital Travelです。欧州委員会は2024年10月、統一されたDigital Travel CredentialとEU Digital Travel applicationを設ける法案を提示しました。生体旅券等からデジタルな旅行資格情報を作成し、旅行計画とともに国境当局へ事前提出することで、多くの確認を国境到着前へ移す構想です。 

2026年8月19日時点では、これはEU全体で利用できる完成済みサービスではなく立法過程にある制度です。欧州議会のLegislative Trainは議会・理事会での手続と交渉の進行を示しており、アプリを2030年から利用可能とすることも提案上の計画です。2030年に必ずEU全域で始まると確定事項として書くべきではありません。 

EU案が興味深いのは、顔照合の設計がより明示的になっている点です。欧州委員会案では、提出されたDTCの顔画像を一時的なローカルのデータベース/ギャラリーに置き、国境に現れた旅行者をDTCへ生体的に結び付ける仕組みが検討されています。これは物理旅券一冊を読み、その旅券の顔画像だけと比較する単純な1対1モデルより、データベース型の照合要素が強くなります。 

一方、EU DTCとEuropean Digital Identity Walletも同一ではありません。デジタルIDウォレットは幅広い本人確認・属性証明を扱う基盤であり、旅行文書固有の国際標準・国境管理要件を持つDTCとは役割が異なります。一部のEU提案ではDTCをウォレットに格納する可能性が想定されていますが、「EUDI Wallet=パスポート」という意味ではありません。 

DTCの実証例として価値があるのがフィンランドです。フィンランド国境警備隊はヘルシンキ空港で2023年8月28日から2024年3月31日までDTCの実証を行いました。2024年には対象をFinnairの22路線へ拡大しましたが、これは期間限定の実証であり、現在フィンランド全国で物理旅券が不要になったことを意味しません。 

この実証は摩擦の移動という視点でも重要です。旅行者はスマートフォン側でDTCを準備し、情報を事前送信する必要がありました。国境での処理時間を短くできても、本人確認の準備そのものが消えるわけではなく、旅行前へ移動するからです。 

英国はさらに別の経路を進んでいます。2026年7月更新のGOV.UK案内では、15の航空・鉄道港に290台超のeGateが設置されていますが、現在の利用者には生体旅券を持つことが求められます。つまり現時点のeGateは旅券不要の国境ではありません。 

その一方で英国内務省は、Manchester Airportのcontactless eGate pilotを踏まえ、2026年後半以降に顔比較技術をより多くの港へ展開し、将来的には旅券を提示せず本人性を確認する方向を示しています。2026年5月の政府発表も、Contactless Borderでは顔比較技術で本人確認し、旅券提示の必要を減らす構想を説明しています。これは将来計画・展開中の構想であって、2026年8月19日に英国の全旅行者が顔だけで入国できるという意味ではありません。 

EUと英国を見ても日本より進んでいる/遅れているという一本の物差しでは測れません。EUはEESという大規模な生体情報・入出国記録基盤を本稼働させる一方、DTCアプリはまだ立法段階です。英国ではETA等のデジタルな渡航資格と既存eGateを整備しつつ、Contactless Borderを実証・展開しようとしています。電子化されている層が違うのです。 

顔認証で旅行は楽になるが、負担は本当に消えるのか

顔認証・DTC・事前審査の最大の利点は、空港で旅券を取り出し、機械に挿入し、審査官へ渡し、同じ情報を複数回提示する摩擦を減らせることです。日本の共同キオスク自体も、入管と税関の重複した情報提供をまとめて時間を短縮することを導入目的に掲げています。 

しかし、利用者の作業がゼロになるわけではありません。

現在の日本の共同キオスクを例にすると、利用者はVisit Japan Webで情報を入力し、二次元コードを用意し、空港で旅券を読み取らせ、顔画像を取得します。つまり、税関検査場で一枚ずつ書類を書く負担は減る一方、情報入力の一部は旅行前のスマートフォン操作へ移っています。 

DTCではこの傾向がさらに強まります。スマートフォンでICチップを読み取る、資格情報を生成・保存する、必要な相手へ事前提出する、端末やアプリを更新する、といった前工程が増え得ます。EU Digital Travel構想が多くの確認を事前に行うことで国境待ち時間を短縮すると説明していることは、この設計思想をよく表しています。 

そこでデジタル化すれば空港手続が消えるというより、

空港での摩擦 → 渡航前のデータ準備へ移動
有人窓口での確認 → 自動照合と例外処理へ移動
全員を止める手続 → 問題がある人だけを止める手続へ移動

と見る方が適切です。

この移動が便利になるかは利用者ごとに異なります。例えば日本の共同キオスクは機器仕様上135cm未満では利用できず、税関電子申告ゲートにも小さな子ども向けの個別運用があります。一方で車いす利用者への対応も明記されています。こうした差は「高齢者は苦手」「若者なら問題ない」といった世代論ではなく、端末・身体条件・UI・例外処理を含むサービス設計として扱うべきです。 

スマートフォン依存も同じです。DTCがスマートフォンで利用できるようになったとしても、バッテリー切れ、紛失、故障、OSやアプリの問題、NFC読取失敗、資格情報更新の問題はゼロにはなりません。だからデジタル資格情報だけではなく、代替手段が重要になります。

物理旅券を「時代遅れのもの」と決め付けるべきでない理由がここにあります。現在の英国eGateですら生体旅券を求め、フィンランドのDTCは実証として行われました。ICAO自身もDTCのグローバルな相互運用性と制度枠組みの整備を続けています。 

したがって物理旅券は、デジタル化に負けて残っている「古い媒体」ではなく、少なくとも移行期には、オフラインでも検査でき、国境をまたいだ共通認識が成熟しているフォールバック資格情報という価値を持ちます。

もう一つの摩擦は「誤認」です。顔認証が高速化してもfalse non-matchは理論的にも実運用上もゼロにはできません。NISTがアルゴリズムを閾値・画像・用途ごとに継続評価していること自体、精度を固定された一数字で扱えないことを示しています。 

そこで重要になる性能指標は、認証成功率だけではありません。

失敗した人が何分で人間の審査へ戻れるか。
誤ったデータを訂正できるか。
スマートフォンを使えない人にも合理的な経路があるか。
機械が止まったとき国境自体が止まらないか。

こうしたフォールバックまで含めて初めて、便利な本人確認システムと評価できます。

顔が「鍵」になる社会で確認すべきこと

顔認証への不安を考えるとき、「顔認証だから危険」「政府が使うから安全」という二択は役に立ちません。

最低限、何を取得するか、何と照合するか、何の目的か、誰が管理するか、保存するか、保存するならいつまでか、誰と共有するか、拒否・代替手段はあるか、誤認時に再審査できるかまで分解する必要があります。

例えば、空港で顔を撮られるでも日本とEUでは意味が違います。

システム顔データの扱いで公式確認できること
日本・入管顔認証ゲートIC旅券の顔画像とライブ撮影を照合。ゲート撮影画像は本人確認のみに使用し保存しない。失敗時は審査ブースへ。 
日本・共同キオスクIC旅券顔画像とライブ撮影を照合。撮影画像は本人確認・ゲート認証後、速やかに削除。 
日本・税関電子申告ゲート端末・ゲートで顔を撮影し認証。撮影画像は使用後速やかに削除。 
EU・EES顔画像、指紋、旅券情報、入出国情報等をシステムに記録。 
EU Digital Travel2026年8月時点では提案・審議段階。提出DTCの顔画像を一時的ギャラリーで扱う設計案を含む。 

つまり、撮影と保存は別です。

「顔画像」と「顔特徴データ」も分ける必要があります。顔画像は写真そのものです。一方、顔認証では画像から特徴を抽出して比較可能な表現を作ることがあります。日本の個人情報保護法上も、顔の特徴から本人認証ができるよう変換された一定の情報は個人識別符号に該当します。 

顔特徴データが重要なのは、漏えい後にユーザーが自由に「新しい顔」へ変更できないからです。個人情報保護委員会は顔特徴データの不変性が高く、行動追跡にも利用可能という性質を踏まえ、安全管理措置を求めています。これは「顔認証は監視である」という意味ではなく、同じデータでも使い方によって影響が大きく変わるため、用途・保存・アクセス権を設計する必要があるということです。 

保存期間も「できるだけ長く」ではなく目的と必要性から考えるべきです。個人情報保護委員会の一般的FAQでは、個人情報取扱事業者について、利用の必要性を考慮して保存期間を設定し、必要がなくなれば遅滞なく消去するよう努める考え方を示しています。国境当局にその民間向けFAQをそのまま適用できるという意味ではありませんが、データ最小化を考える軸として重要です。 

そして、顔認証がウォークスルー化するほど重要になるのが「認証の透明性」です。

有人審査なら、旅券を渡した瞬間に今、自分は審査されていると分かります。しかしカメラが通路に統合され、事前送信した資格情報と背景で照合されれば、「どのカメラで」「どの資格情報と」「何のために」認証されたのかは分かりにくくなります。

ここから直ちに常時監視になると結論づける根拠はありません。しかし、本人確認が不可視化するほど、

認証中であることの表示
利用目的
管理主体
保存・削除方針
第三者提供の範囲
問題発生時の問い合わせ先
有人手続への切替方法

を利用者に示す価値は高くなります。

個人情報保護委員会も一般の顔識別カメラについて、外観だけでは顔識別機能が使われていると分かりにくいため、運用主体、利用目的、問い合わせ先等を分かりやすく示す考え方を示しています。国境管理とは法的文脈が異なるものの、認証が背景化するほど説明が重要になるというサービス設計上の示唆は共通します。 

2030年代のパスポートはどう変わる可能性があるか

2026年8月19日時点で確認できる一次資料からは、少なくとも三つの条件付きシナリオが考えられます。

短期シナリオ:物理旅券+事前デジタル手続+顔認証がさらに連携する。

これは最も確度の高い方向です。日本にはすでにIC旅券、オンライン申請、顔認証ゲート、Visit Japan Web、共同キオスク、ウォークスルー型税関手続があり、JESTAについても2028年度中の導入目標が示されています。したがって冊子を廃止しなくても、空港で冊子を何度も提示する回数を減らす余地があります。 

ただしJESTAの具体的な施行日、対象者ごとの運用、共同キオスク2.0等との最終的なシステム連携方法は、2026年8月19日時点で今後の政省令・運用情報を確認する必要があります。法制化を運用開始と書いてはいけません。 

中期シナリオ:DTCによる渡航前本人確認が増える。

ICAOのDTC仕様がさらに成熟し、Annex 9上のルール、各国法制、PKI、ウォレット間の相互運用性、航空会社・国境システムとの連携が整えば、旅券ICチップのデータを空港で初めて読むのではなく、旅行前に検証可能な形で提出するケースは増える可能性があります。EU Digital Travelは、このモデルを制度化しようとする代表例です。 

ただし、これは「スマホ画面を見せればどこの国にも行ける」という意味ではありません。DTCをどの国が発行でき、どの国が受理し、どの端末・ウォレットで扱い、紛失時にどう失効し、物理旅券なしでどこまで法的効力を持たせるかという相互運用性が必要です。

長期シナリオ:物理旅券を提示する頻度は大幅に減るが、旅券という法的資格情報自体は残る。

DTC、電子渡航認証、航空会社への事前データ、顔による到着時確認が十分に連携すれば、利用者から見ると「空港でパスポートを出さなかった」という旅行は増える可能性があります。英国のcontactless border構想も、旅券提示そのものを減らす方向を示しています。 

しかし、そこで消えているのは必ずしも「パスポート」という制度ではありません。

裏側には依然として、国家が発行した資格情報、国籍・氏名・生年月日等の身元情報、真正性を支える電子署名、渡航資格、本人との生体的な結び付きが存在します。

この意味で、2030年代の変化を考える最も有効な問いは、

「パスポートはなくなるか」ではなく、「パスポートという資格情報はどの媒体に存在し、旅行中に何回、どのような形で本人へ結び付けられるか」

です。

パスポート電子化は、単なる「冊子からスマートフォン」という媒体変更ではありません。現在確認できる日本・ICAO・EU・英国の動向を並べると、政府が保証した身元情報を前もって検証可能にし、その情報と旅行者本人を生体情報で結び付け、国境での確認を短くする方向が共通して見えます。 

ただし、ここから「国境は完全に顔だけになる」「物理旅券はまもなく廃止される」「すべての顔が中央データベースに保存される」と結論づけることはできません。日本の現行顔認証ゲートは撮影画像を保存せず、物理IC旅券を利用します。一方EU EESは生体情報を記録します。DTCは国際標準化・制度整備が進んでいますが、日本による正式採用は今回確認できません。 

したがって、近い将来に大きく減る可能性があるのは、パスポートそのものよりパスポートを取り出し、差し出し、何度も見せる行為でしょう。

そして、本人確認がほとんど意識せず終わるようになったとき、私たちは速く通れたかだけでなく、いつ、誰が、何を確認したのかを理解できる仕組みも求めるようになるのではないでしょうか。

よくある疑問

Q. 日本のパスポートはいつ完全電子化されますか?
物理旅券を廃止する時期は、2026年8月19日時点で確認できる日本政府の公式資料では決まっていません。現在は2025年旅券という物理IC旅券の発給が続いています。 

Q. スマートフォンだけで海外旅行できるようになりますか?
技術的にはDTCなどによって旅券情報をスマートフォン等で扱う方向がありますが、国際相互運用性、各国法制、受入国、航空会社、障害時手段が必要です。2026年時点で日本人が物理旅券なしに一般的な海外旅行をできる制度にはなっていません。 

Q. 顔認証ゲートでは何と顔を比較していますか?
日本の顔認証ゲートでは、旅券ICチップ内の顔画像と、その場でカメラ撮影した顔画像を比較します。1対1の本人確認です。 

Q. 顔写真は保存されますか?
システムによります。日本の入管顔認証ゲートではゲート撮影画像を保存しないとされ、共同キオスク・税関電子申告ゲートでは使用後速やかに削除するとされています。一方、EU EESでは顔画像等をシステムに記録します。 

Q. 顔認証に失敗すると入国・帰国できませんか?
日本の顔認証ゲートでは、顔画像による本人確認ができない場合などは審査ブースで手続を受けます。機械による不一致と最終的な入国可否は同じ意味ではありません。 

Q. IC旅券とデジタルパスポートは同じですか?
同じではありません。IC旅券はICチップを内蔵した物理旅券です。DTCは旅券等の信頼された資格情報をデジタル形式で扱う仕組みです。 

Q. DTCとは何ですか?
Digital Travel Credentialの略で、ICAO Doc 9303に沿って旅行者の身元情報をデジタルで表現し、発行主体の真正性を検証できる旅行資格情報です。単なるパスポート画像ではありません。 

Q. EUのEESはデジタルパスポートですか?
いいえ。EESは短期滞在の対象となる非EU国民の旅券情報、生体情報、入出国記録等を電子管理する国境管理システムです。EU Digital Travel/DTCとは別制度です。 

Q. スマートフォンを紛失したらどうなりますか?
将来のDTC制度ごとの失効・復旧方法によります。ICAO DTCがあることだけから共通の復旧方法を断定できません。この点も物理旅券や有人審査などフォールバックが重要になる理由です。 

Q. 将来、物理パスポートはなくなりますか?
可能性を否定することはできませんが、時期を示す公式な世界共通ロードマップはありません。現在の実装を見る限り、まず物理旅券の「提示頻度」が減り、物理旅券自体はフォールバックとして併存するシナリオの方が根拠を持って描けます。 

参考

外務省(2025年1月17日)「旅券(パスポート)の変更について 新しいパスポートと、一つ先の未来へ」外務省、https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/pagew_000001_01253.html、閲覧日:2026年8月19日。 

外務省(2026年閲覧)「よくあるお問い合わせ 2025年旅券(パスポート)について」外務省、https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/pagew_000001_01222.html、閲覧日:2026年8月19日。 

外務省(2026年7月13日最終更新確認)「パスポート(旅券)」外務省、https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/index.html、閲覧日:2026年8月19日。 

デジタル庁(2025年3月24日ほか)「マイナポータル お知らせ」デジタル庁、https://services.digital.go.jp/mynaportal/news/、閲覧日:2026年8月19日。 

出入国在留管理庁(2026年閲覧)「顔認証ゲートの更なる活用について(お知らせ)」法務省、https://www.moj.go.jp/isa/immigration/resources/nyuukokukanri07_00168.html、閲覧日:2026年8月19日。 

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