縄文時代の海上交通を考えるとき、神津島の黒曜石ほど魅力的で、同時に慎重に読む必要がある資料は多くありません。伊豆半島南東岸の見高段間遺跡では神津島系の黒曜石が圧倒的多数を占め、2025年には、同遺跡に残されていた重量19.5kgの大型原石そのものが蛍光X線分析によって神津島・恩馳島産と判定されました。見高段間遺跡から神津島までは現在の直線距離で約63kmです。
つまり、神津島の黒曜石が海を越えたという中心事実は、想像や伝承ではありません。石の元素組成と遺跡の出土状況に基づく物証があります。一方、この事実から縄文人はこの形の丸木舟で、この季節、この航路を通り、特定の交易者が関東まで黒曜石を売り歩いたとまでは言えません。産地同定は石の故郷を教えてくれても、航跡が記録されているわけではないからです。
そこで本記事では、「石の旅」と「人の旅」を分けます。神津島産黒曜石の分布から、私たちは縄文人の航海と交換をどこまで復元できるのでしょうか。そして、神津島から南関東へ広がる黒曜石は、一人の運搬者による長距離輸送よりも、海上輸送、陸揚げ、加工、交換、再分配が連結した多段階のネットワークとして見た方が説明しやすいのでしょうか。
結論を先取りすれば、そのモデルにはかなりの説明力があります。ただし、見高段間遺跡から19.5kgの大型原石が出土していることや、縄文/弥生移行期には恩馳島産と砂糠崎産で流通範囲と製品用途が異なることから、単純な距離に応じて小型化する一本道の物流モデルにもできません。神津島黒曜石の面白さは、まさにその複雑さにあります。
縄文人は神津島の黒曜石をどう運んだのか――
最も確実なところから始めましょう。
神津島系の黒曜石が、縄文時代に海を越えて伊豆半島側へ運ばれたことは、きわめて強く支持されます。 見高段間遺跡では、化学組成と晶子形態を組み合わせた分析、さらにエネルギー分散型蛍光X線分析による研究の双方で神津島産が圧倒的多数を占めると報告されています。2025年には従来装置に入らなかった大型原石を可搬型XRFで直接分析し、神津島・恩馳島産と判定しました。
この大型原石は19.5kg、最大幅34.5cm、長さ30.6cm、厚さ15.2cmで、恩馳島の板状節理をもつ黒曜石溶岩に由来すると分析されています。表面の状態から、長期間海中を転動して丸くなった礫というより、露頭そのもの、あるいはそこから離れてあまり時間がたっていない段階で採取された可能性が論じられています。一部には大きな剥離がありますが、全体として原石時の形と大きさをかなり残しています。
これは物流を考えるうえで重要です。重い不要部分は島で全部取り除き、小さな石核だけを舟に積んだはずだという単純な効率モデルでは説明できません。少なくとも縄文中期後半の一例では、19.5kgもの素材を大幅に軽量化せず本土側へ持ち込む行動があったことになります。
一方、黒曜石が神津島から来たという事実と、見高段間遺跡の住民自身が神津島へ採取に行ったという主張は同じではありません。別の海上移動集団から受け取った可能性もあれば、複数地点を経由した可能性もあります。
同様に、海を越えたからといって使用された舟が判明するわけでもありません。神津島航路で使われた縄文期の舟そのものが、黒曜石とセットで発見されているわけではありません。したがって丸木舟は考えるべき有力候補の一つですが、「神津島黒曜石がある→丸木舟だった」という論証は成立しません。
ここで役立つのが証拠の階段です。
| 証拠 | 比較的強く言えること | そこからは言えないこと |
|---|---|---|
| 本土遺跡の黒曜石を神津島産と同定 | 石材が神津島系の原産地から移動した | その遺跡の住民本人が採取した |
| 19.5kg原石が恩馳島産 | 大型原石級の素材も本土へ運ばれた | 毎回同程度の荷を運んだ |
| 神津島が海上にあり本土側に出土 | 何らかの海上輸送が不可欠 | 舟型・航路・乗員・航海季節 |
| 伊豆南東岸に複数の「陸揚げ地」と解釈される遺跡 | 海岸側に供給・集積の構造があった可能性 | 固定港・港町・専門交易者の存在 |
| 南関東へ神津島系石材が広がる | 海上移動後に陸上の流通が続いた | 同じ人が神津島から最終地点まで運んだ |
| 原産地別に製品・分布が異なる | 調達・加工・需要の仕組みが単純ではない | 市場・価格・貨幣取引の存在 |
したがって、この記事で使う「交易」は、現代の商売を意味する言葉ではありません。確実性が必要な場面では「獲得」「移動」「交換」「流通」と言い分け、貨幣、市場、商人、利益を証拠なしに持ち込まないことが重要です。
なぜ「神津島の石」だと分かるのか――黒曜石が残した地球化学的な指紋
黒曜石は火山活動で生じた天然ガラスで、鋭い剥離面を作れるため石器素材として利用されました。しかし考古学にとってさらに重要なのは、原産地ごとに化学組成のパターンが異なるため、遺跡から出た石を原産地資料と比較できることです。
見高段間遺跡の2025年研究では、可搬型蛍光X線分析装置を使用しました。蛍光X線分析とは、試料にX線を当て、元素ごとに特徴的な蛍光X線を測定して組成を調べる方法です。エネルギー分散型XRFは波長分散型より分解能に制約がある一方、装置を小型化しやすく、非破壊で短時間に測定できる利点があります。
2025年の大型原石分析では、明治大学黒耀石研究センターで既に整備されていた原産地資料を基礎に、17原産地32試料を可搬型装置でも測定し、鉄、マンガン、カリウム、ルビジウム、ストロンチウムなどに関する複数の指標で判別しました。大型原石を5か所測定した結果はいずれも神津島・恩馳島群の領域に入り、研究では恩馳島産と結論づけています。
重要なのは、これは見た目が似ているから神津島産という話ではないことです。既知原産地の試料群と未知試料の組成を比較するため、黒曜石は考古学上、一種の物流追跡タグとして働きます。
ただし、この比喩にも限界があります。元素組成が示すのは原則として「どの地質学的原産地に近いか」であって、「いつ採ったか」「誰が採ったか」「どの浜から出航したか」「途中で誰に手渡したか」を記録するものではありません。
さらに、「神津島産」という括りの内部にも違いがあります。縄文から弥生への移行期、紀元前1000年前後の約2300点を分析した池谷・杉山の研究では、恩馳島産は南関東一円へ広がり主に石鏃素材として利用されたのに対し、砂糠崎産は伊豆諸島から伊豆半島という比較的狭い範囲に、石刃素材として供給されたと整理されています。
これは非常に示唆的です。同じ「神津島産」でも、産出地点、石材特性、作る道具、需要によって移動パターンが違いうるということです。
ただし、この紀元前1000年前後の事例を縄文中期へそのまま逆投影してはいけません。ここで確認できるのは、神津島黒曜石の流通システムが長期にわたり常に一つの固定モデルだったと考えるべきではないという点です。
産地同定は、人間の移動を直接知る方法ではありません。それでも本来そこには存在しない地質学的素材が、いつ、どの遺跡に、どんな形で現れるかを大量に比較できるため、文字のない時代の移動研究に極めて強い手掛かりを与えます。
石はどこまで移動したのか――出土地点から見える海と陸のネットワーク
神津島黒曜石の流通を考えるうえで鍵となるのが、伊豆半島南東岸です。
2025年の研究は、河津町の見高段間遺跡、下田市の田京山遺跡、東伊豆町の峠遺跡を、先行研究で神津島産黒曜石の「陸揚げ地」と解釈されてきた遺跡として挙げています。そのなかでも縄文中期の見高段間遺跡は、遺跡規模と黒曜石出土量で突出していると評価されています。
ここでは言葉に注意が必要です。「陸揚げ地」は発掘で港湾施設が発見された、という意味ではなく、大量の神津島産黒曜石、地理的位置、加工痕跡などを組み合わせた考古学上の解釈です。
見高段間遺跡は河津川河口の約1.8km北、相模湾に向かって突き出す岬状地形に位置し、神津島までは現在の直線距離で約63kmです。2025年論文によれば、秋冬の晴天時には遺跡付近から神津島の島影を目視できます。
1925年の発掘を伝える記録では、大型黒曜石原石の周囲から多量の石屑が出たとされ、その後の調査で東側斜面には縄文中期初頭の包含層、台地部には加曽利E3式を中心とする中期後半の環状集落が確認されました。大型原石はその遺構分布から中期後半に属すると考えられています。
したがって見高段間では、遠方から完成した石鏃だけが届いたのではありません。大型原石と多数の剥離屑を含むため、少なくとも一部の加工が本土側で行われたとみることに強い根拠があります。
この一点だけでも「採取地→完成品→消費地」という二地点モデルは不十分です。より現実的には、
恩馳島などの原産地 → 海上運搬 → 伊豆南東岸の遺跡 → 加工・分割 → 南関東などへの地域間移動
という段階を想定する必要があります。
ただし、見高段間がすべての神津島黒曜石を独占的に扱った「交易港」だったとは言えません。2025年論文自体が田京山・峠など複数の陸揚げ候補を挙げています。これはむしろ、時期や地域によって複数の海岸接点が機能した可能性を考える材料です。
また、流通圏は時期によって変わります。2025年には「縄文時代中期から後期への黒曜石供給の変化と社会組織」を主題とする研究が刊行され、2022年にも東京都・世田谷を事例とした中期の黒曜石流通変化が検討されています。研究テーマ自体が示すとおり、「縄文時代を通して神津島産が同じ割合・同じルートで流れ続けた」という静的モデルではなく、信州系など他産地との関係を含めて時期差を追うことが現在の研究課題です。
南関東に広がったという分布図を見ても、その線は古代の道路地図とはなりません。出土地点の間には、まだ見つかっていない集落、調査されていない遺跡、保存されなかった交換行為が存在しえます。
考古学で得られるのは、点から点へ石が移った結果です。その間を結ぶ矢印は、証拠の密度に応じて太さを変える必要があります。
黒潮をどう越えたのか――舟・海流・風・視界から航海を考える
神津島まで約63kmと聞くと、距離だけで航海難度を判断したくなりまが、海上移動では距離は一つの変数にすぎません。海流、風、波、視界、舟の速度、出航地点、上陸可能な海岸、復路の条件が組み合わさります。
見高段間遺跡から神津島までの約63kmは現在の直線距離です。縄文期には海面・海岸線が現在と完全には一致しないため、これをそのまま縄文人が漕いだ航路長とはできません。本記事では神津島―伊豆南東岸の縄文中期海岸線を必要な精度で再構成した一次研究を十分確認できなかったため、63kmは地理的位置を理解する目安として扱います。
視認性については一歩踏み込めます。現在、見高段間側から晴天の秋冬には神津島の島影が見えると報告されています。これは目標となる島が常に水平線の外にあったとは限らないことを示す比較材料です。もっとも、現在の晴天時に見えることから、縄文人が秋冬だけ航海したとは言えません。
さらに難しいのが黒潮です。池谷・塩島は2018年に「縄文時代における神津島への航海と黒潮―シーカヤックによる渡航事例をもとに―」を発表しており、神津島航海を海流条件から検討しています。
また比較材料として非常に価値が高いのが、国立科学博物館などによる「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」です。
2019年には復元丸木舟「スギメ」で台湾から与那国島への実験航海が行われ、2025年、海部陽介、池谷信之らの研究グループがScience Advancesに成果を発表しました。同時に古海洋モデルを用いた論文も刊行され、約3万年前の強い黒潮条件でも、適切な航海戦略と漕航能力を備えた丸木舟が横断できる可能性が検討されています。
ただし、ここは最も混同してはいけないところです。
この実験は旧石器時代の台湾―与那国航海を検証するものであって、縄文中期の伊豆半島―神津島航路を再現したものではありません。海域も時代も目的も異なります。したがって証明したのは先史時代に、人力の丸木舟で強い海流を横切る航海は物理的に不可能ではないという実行可能性であり、縄文人も神津島へ同じ構造・同じ人数の丸木舟で渡ったという歴史的事実ではありません。
実験航海が教えてくれるもう一つの点は、「可能」と「簡単」は違うことです。2025年研究では、海流に対抗するために熟練した漕ぎ手と航海判断が必要であることが重視されています。強い海流の存在を無視して島が見えるなら直進すればよいと考えるのは適切ではありません。
また、往路だけを考えるのも不十分です。黒曜石を持ち帰る行動を想定するなら、帰路を成立させなければなりません。海流・風向・波浪条件が往復で同じとは限らず、積荷が増えれば舟の挙動も変わります。
その意味でも、19.5kgの大型原石は航海の議論に重量感を与えます。石器の小片だけなら携行荷物程度にも見えますが、少なくとも一例では大型素材を海上輸送しているからです。とはいえ、1個の大型原石から舟の積載量、乗員数、一航海あたりの輸送量を計算することはできません。
現時点で最も安全な表現はこうです。
舟による意図的な海上運搬は強く推定できる。しかし、舟型、正確な航路、出航・上陸地点、季節、乗員数、航法は未確定である。
縄文人は丸木舟で黒潮を越えたと一文で書ければ分かりやすいのですが、考古学的には少し言い過ぎになります。
誰が運んだのか――「交易」という一語では分からない縄文時代の物流
ここからが神津島黒曜石研究の最も面白い部分です。
石が海を渡ったことは分かっても、誰が運んだかは分かりません。
考えられるモデルを分解すると、少なくとも四つあります。
第一は、伊豆半島側などの集団が神津島へ直接出向き、自ら採取して戻る「直接採取」です。
第二は、島や海域に詳しい人々が採取・輸送し、本土側で別集団へ渡すモデルです。
第三は、本土側の見高段間などへ一度集積し、そこで原石の分割や石器製作を行って周辺へ再分配するモデルです。
第四は、集落から集落へ少量ずつ渡される段階的交換です。この場合、神津島から200km離れた遺跡に石が着いても、その200kmを一人が通して移動した必要はありません。
考古学的に区別するには、何点出たかだけでは足りません。
直接採取を考えるなら、原産地に近い素材構成、大型原石、初期加工片、石核などが重要です。本土側の集積・加工地点なら、原石だけでなく大量の剥片・石屑、製作途中品、石核が期待されます。最終消費地点に近づくほど小型石核や完成品だけになるなら段階的加工・流通モデルと整合的ですが、実際の分布がそうなっているかを時期ごとに検証する必要があります。
見高段間遺跡は、この議論に強い資料を提供します。大型原石の周囲から多量の石屑が報告され、神津島産黒曜石が圧倒的多数を占めています。さらに19.5kg原石が恩馳島産と直接判定されたため、海を越えた後、本土側の遺跡に大型素材が入り、そこで加工行為が行われたという部分にはかなり強い根拠があります。
ただし、これだけでも再分配センターとまでは確定しません。大量加工がその集落自身の需要だった可能性も残ります。そこから他集落へ送り出したと証明するには、周辺遺跡との同時期比較、素材サイズの変化、石核や剥片の接合関係、製作技法、原産地構成などを組み合わせなければなりません。
「神津島→海上輸送→見高段間→南関東」という多段階モデルは有力な説明モデルですが、それが全時期・全資料に共通する唯一の流通システムだったとは言えません。
その理由の一つが、すでに見た砂糠崎産と恩馳島産の違いです。縄文/弥生移行期には、恩馳島産が南関東へ広く石鏃素材として流れる一方、砂糠崎産は伊豆諸島から伊豆半島に限定的に石刃素材として動くという異なるパターンが確認されています。
同じ島の資源でさえ一本の供給網には乗っていません。
この事実は、現代物流との比喩を使うならサプライチェーンが一つではなかったと表現できます。しかし、それは会社や卸売業者が存在したという意味ではありません。物質の移動過程が複数に分岐していた、という分析上の意味だけです。
また、専門航海者の存在も未証明です。危険な海を何度も渡るなら経験者が重要だったという推論は合理的ですが、航海を専業とする社会集団が存在したかは別問題です。技術的熟練と職業的専門化を同じものとして扱ってはいけません。
同様に、「定期航路」も慎重に扱うべきです。長期間にわたり黒曜石が供給されたことは反復的な海上アクセスと整合しますが、毎年決まった季節、決まった経路を運航する制度化された航路があったとまでは証明できません。
したがって縄文の海上交易を最も安全に言い換えれば、神津島の石材を獲得し、海を越えて移動させ、本土側で加工・交換し、より広い地域へ流通させた複数の社会的実践の総体となります。
なぜ重い石を海の向こうから運んだのか――黒曜石の価値を考える
ここで素朴な疑問が残ります。
なぜ、わざわざ海の向こうから石を運んだのでしょうか。
最も堅実な答えは、まず石器素材として利用価値があったからです。実際、縄文/弥生移行期の分析では、恩馳島産黒曜石が石鏃素材、砂糠崎産が石刃素材として異なる形で利用されており、黒曜石の移動が具体的な道具需要と結びついていたことが示されています。
ここから黒曜石は貴重だったと表現することはできますが、「希少だったから神聖だった」「遠隔地産だから首長の威信財だった」と進むには別の証拠が必要です。
広域流通そのものは威信財の証明ではありません。実用品も非常に広く移動します。むしろ重要なのは、どの器種に使われたか、集落内でどこから出るか、他石材とどう使い分けられたか、廃棄・再利用されたかです。
見高段間の19.5kg原石には、多数の打撃痕と大型剥離が認められていますが、なぜ加工が途中で止まったのかは確定していません。2025年研究も、打撃痕の意図や具体的な作業内容について、剥片研究や実験考古学による追加検討が必要だとしています。
この大型原石は、先史物流は常に重量最小化を目指したはずという現代的な効率観にも注意を促します。
現代なら輸送コストを減らすため、産地で不要部分を徹底的に落とすことを想像しがちです。しかし実際には大型原石が本土まで来ています。考えられる理由は、品質を本土側で評価したかった、将来使う素材をまとまった形で保管したかった、大型の良質部位を保持する意味があった、など複数あります。
しかし、現在の証拠からどれか一つに決めることはできません。
むしろこの例から確実に言えるのは、縄文期の運搬判断を「最小重量・最大効率」だけでモデル化すると外れることがある、という点です。
さらに原産地選択には、他地域産黒曜石との競合もあります。2025年の研究動向では、縄文中期から後期にかけての黒曜石供給変化、信州系原産地との関係が主要論点として扱われています。したがって神津島黒曜石の価値は、最も近い石が使われただけでも、遠いから価値が高かっただけでも説明できず、時期ごとの供給関係と道具製作を合わせて考える必要があります。
ここで物流分析が効いてきます。
黒曜石の価値を考えるとき、最終的な石鏃だけを見るのではなく、
採取された原石 → 大型原石や石核 → 剥片 → 製作途中品 → 完成品 → 再加工品
という履歴を追います。
原石の状態が変われば、重量だけでなく、誰が石器製作の知識を持っていたか、どの地点で品質を選別したかという人間行動の推定も変わります。
黒曜石が「物流追跡タグ」になるのは、元素組成だけのおかげではありません。
地球化学的な産地+石器製作工程+出土位置+年代を組み合わせたとき、初めて石がどこから来て、どこで姿を変えたのかを追えるのです。
どこまで分かり、何がまだ分からないのか――航海ロマンと考古学の境界
神津島黒曜石について、証拠の強さをまとめると次のようになります。
| 論点 | 現時点の評価 | 理由 |
|---|---|---|
| 神津島系黒曜石が本土側に存在 | 非常に強い | 化学組成などによる産地同定 |
| 見高段間大型原石が恩馳島産 | 非常に強い | 2025年p-XRF分析で判定 |
| 黒曜石が海上輸送された | 非常に強い | 島嶼原産地と本土出土を結ぶには海上移動が必要 |
| 大型原石も輸送された | 直接確認 | 19.5kg原石 |
| 見高段間で加工が行われた | 強い | 大型原石と多数の石屑など |
| 見高段間が陸揚げ・中継地点だった | 有力な解釈 | 位置、出土量、素材構成を総合 |
| 伊豆南東岸に複数の接点があった | 有力な解釈 | 見高段間・田京山・峠などが候補 |
| 南関東への交換・流通 | 強く支持 | 産地同定資料の広域分布 |
| 同じ人が神津島から南関東まで運搬 | 不明 | 人間個体の移動を追う直接証拠がない |
| 段階的交換・再分配 | 有力なモデルの一つ | 分布と中継候補から説明可能だが排他的証明ではない |
| 使用舟が丸木舟 | 未確定 | 神津島航路の舟体資料がない |
| 航路・出航地点・上陸浜 | 未確定 | 分布から候補は考えられるが直接記録なし |
| 航海季節 | 未確定 | 現代の視認・海況を古代の運航暦に直結できない |
| 専門航海者・交易者 | 未証明 | 熟練の必要性と職業的専門化は別問題 |
| 市場・価格・貨幣取引 | 証拠なし | 「交易」という語から仮定できない |
| 威信財・神聖物 | 証拠不足 | 広域流通だけでは証明不可 |
特に重要なのが証拠の階段の途中を飛ばさないことです。
神津島産だと分かる → 海を越えたことが分かる → 本土側に加工地点らしい場所がある → 複数段階の流通を考えられる
ここまではかなり進めます。
しかし、
→ この浜から出航した → この形の舟だった → 5人で漕いだ → 秋に往復した → 専門交易者が運んだ
となるにつれて、証拠は急激に薄くなります。
2025年の旧石器航海実験が非常に面白いのは、この境界を理解する助けになるからです。台湾から与那国への丸木舟航海と数値シミュレーションは、強い黒潮を人力舟で横断できる可能性を示しました。しかし、実験でできたことは古代人がそうしたことと同義ではありません。まして、その結果を縄文中期の神津島航路へそのまま移植することはできません。
旧石器時代の航海と縄文時代の神津島黒曜石を分けることも重要です。
国立科学博物館などのプロジェクトは約3万年前の琉球列島への人類移動を対象とします。一方、本記事の中心は縄文時代の神津島石材流通です。両者をつなげてよいのは、日本列島周辺の先史人類が海上移動を行いうることを検討する比較資料という範囲までです。
考古学では、証拠が何を証明し、何を証明しないのかを切り分けること自体が成果です。
神津島産黒曜石は、縄文人を原始的な人々にも超高度な海洋文明にもする必要がありません。
石が示している範囲だけでも、十分に複雑な行動が見えているからです。
黒曜石は縄文社会の何を見せてくれるのか――「石の旅」から人間のネットワークへ
神津島産黒曜石を「採取地→海上輸送→本土側の接点→加工→地域内外への流通」という複数段階に分けて考えると、見高段間遺跡の位置、大量の神津島産黒曜石、大型原石、石屑、南関東への分布を理解しやすくなります。
特に見高段間遺跡の19.5kg原石は、「石の移動」を抽象的な点の分布から、実際の重量を伴った運搬行為へ引き戻します。恩馳島由来の大きな素材が約63km離れた伊豆半島側に存在する以上、そこには舟、人、荷役、上陸という行為が必要でした。
ただし、効率的な現代物流のように描くことはできません。大型原石がほぼ原石状態で運ばれた例は産地で不要部分をすべて落として輸送重量を最小化するという効率的な現代物流のモデルに反します。また、縄文/弥生移行期には恩馳島産と砂糠崎産で流通範囲と製品用途が異なっており、神津島産黒曜石の供給網を一本の線にまとめることもできません。
したがって、より妥当なモデルはこうです。
神津島黒曜石の移動は、時期・原産地点・製品用途・地域によって、直接採取、海上輸送、大型素材の搬入、本土側加工、集落間交換などが異なる比率で組み合わされた可変的ネットワークだった可能性が高い。
ただし、これは本記事の推論です。可変的ネットワークという組織そのものの存在が証明されたわけではありません。
また、誰が舟を漕いだのか。伊豆半島側の人々が往復したのか、島嶼側・沿岸側に海上移動を多く担う人々がいたのか。原石は贈与、物々交換、共同利用、親族関係、訪問時の持ち帰りなど、どの社会的関係を通じて渡されたのか。
現在確認できる石だけでは、一つに決められません。
ただし、元素組成によって出発地点を絞り、遺跡の位置で到達点を知り、原石・石核・剥片・完成品という姿の違いから、途中でどんな加工が入ったかを探れます。さらに時期ごとの分布を重ねれば、供給関係の変化まで追跡できます。
だから神津島産黒曜石の本当の面白さは、「縄文人が海を渡った。すごい」というだけではありません。
一個の石がどこで生まれ、海を越え、どこで割られ、どこへ渡っていったのか。その複数の痕跡をつなぐことで、文字を残さなかった人々の移動と関係性が少しずつ見えてくることにあります。
石が神津島から来たことは、科学でかなり追えるようになりました。
しかし、その石を舟に積んだ人が航海を「交易」と考えていたのか、親族への訪問と考えていたのか、共同採取と考えていたのか。受け取った人との関係を本人たちが何と呼んでいたのか。
そこまでは石だけでは完全には復元できません。
その余白を残したまま、証拠が届くところまで人間の行動を追う。それこそが、神津島黒曜石が教えてくれる考古学の面白さです。
よくある疑問Q&A
Q. 神津島から伊豆半島までは何kmですか?
見高段間遺跡から神津島までは、2025年の研究で現在の直線距離約63kmとされています。ただしこれは縄文時代の実際の航路長ではありません。当時の海岸線や出航・上陸地点は現在と同一とは限らないためです。
Q. 本当に丸木舟で神津島へ行ったのですか?
神津島航路で使われた舟型は確定していません。2025年に発表された台湾―与那国の旧石器時代実験では丸木舟で黒潮横断が可能であることが示されましたが、これは別時代・別海域の実行可能性実験であり、神津島航路の直接証明ではありません。
Q. 黒潮をどう越えたのでしょうか?
具体的な縄文期の航法は未確定です。海流に対して舟の進路・速度を管理する必要があったと考えられますが、航海季節や進路を断定できません。旧石器時代の実験研究では、強い黒潮を横断するには熟練と戦略が必要だったことが示されています。
Q. なぜ神津島産だと分かるのですか?
黒曜石に含まれる元素の組成を蛍光X線などで測り、既知の原産地試料と比較するからです。見高段間の19.5kg原石も可搬型XRFで複数箇所を測定し、恩馳島産と判定されました。
Q. 誰が黒曜石を運んだのですか?
分かっていません。伊豆半島側の集団による直接採取、海上移動を担う別集団との交換、複数集落を経由する交換などが候補です。黒曜石の移動は証明できても、人間個体の移動経路までは同じ資料から証明できません。
Q. どこまで流通したのですか?
神津島系黒曜石は伊豆半島だけでなく南関東へ流通したことが研究されています。縄文/弥生移行期には恩馳島産が南関東一円へ広がる一方、砂糠崎産は伊豆諸島~伊豆半島を中心とする狭い分布を示したとされています。ただし時期によって流通圏は変化するため、縄文全期を一枚の地図で表すのは適切ではありません。
Q. 「交易」と呼んでよいのでしょうか?
広い意味では可能ですが、貨幣、市場、専門商人を連想させない注意が必要です。証拠に応じて「獲得」「交換」「流通」「移動」「再分配」と書き分ける方が正確です。
Q. 旧石器時代から航海していたのですか?
神津島産黒曜石と後期旧石器時代の海洋適応は研究対象になっていますが、旧石器時代の海上移動と縄文期の流通制度を同一視してはいけません。さらに国立科学博物館の「3万年前の航海」研究は主として琉球列島への旧石器時代人類移動を検討したもので、縄文期の神津島航路とは別問題です。
参考
池谷信之|「静岡県河津町見高段間遺跡出土の神津島産黒曜石原石」『帝京大学文化財研究所研究報告』第23集|2025年|見高段間遺跡の位置、縄文中期の遺構、大型原石19.5kg、可搬型蛍光X線分析、恩馳島産判定、原石表面・加工状態を確認。
URL:https://teikyo-bunkazai.com/application/files/1917/4539/1871/2305.pdf
金井拓人|可搬型蛍光X線分析による黒曜石原産地推定法に関する研究、『帝京大学文化財研究所研究報告』第23集|2025年|p-XRF、非破壊分析、機器間比較、原産地判別法と限界を確認。
URL:https://teikyo-bunkazai.com/application/files/9917/4539/1740/2303.pdf
明治大学黒耀石研究センター|「池谷信之氏(黒耀石研究センター員)が日本文化財科学会奨励論文賞受賞」|2012年7月4日|縄文/弥生移行期約2300点の分析、恩馳島産と砂糠崎産の流通範囲・器種差を確認。
URL:https://www.meiji.ac.jp/cols/info/2012/6t5h7p00000chg2a.html
池谷信之・杉山浩平|「縄文/弥生文化移行期における神津島産黒曜石のもう一つの流通―神津島砂糠崎産黒曜石の動き―」『考古学と自然科学』60|2010年|明治大学による論文内容紹介を確認。本文については上記紹介で確認できた範囲のみ使用。
本文URLは今回の調査では確認できず。掲載誌・論文情報は日本文化財科学会および明治大学掲載情報で確認。
池谷信之・塩島敏明|「縄文時代における神津島への航海と黒潮―シーカヤックによる渡航事例をもとに―」『貝塚』74、21–26頁|2018年|論文の存在・書誌情報を確認。
URL:https://researchmap.jp/ikenokame/published_papers/31009683
KAKEN|「神津島産黒曜石が示す後期旧石器時代初頭の海洋適応と現生人類の行動能力」課題番号16K03165|2016~2018年度|池谷の神津島黒曜石研究および2018年航海論文の研究背景・業績を確認。
URL:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16K03165/
KAKEN|「ホモ・サピエンス躍進の初源史:東アジアにおける海洋進出の総合的研究」課題番号18H03596|2018年度以降|実験航海研究と神津島航海研究の研究上の位置づけを確認。
URL:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-18H03596/
Yousuke Kaifu et al.|“Palaeolithic seafaring in East Asia: an experimental test of the dugout canoe hypothesis”|Science Advances 11|2025年6月25日|旧石器時代を想定した台湾―与那国の丸木舟実験航海の比較資料として使用。DOI: 10.1126/sciadv.adv5507
URL:https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.adv5507
Yu-Lin K. Chang et al.|“Traversing the Kuroshio: Paleolithic migration across one of the world’s strongest ocean currents”|Science Advances|2025年|旧石器時代の黒潮条件と航海可能性を数値シミュレーションで検討した比較資料。DOI: 10.1126/sciadv.adv5508
URL:https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.adv5508
愛媛大学|「3万年前の黒潮は今よりも速かったらしい-それでも丸木舟は琉球の海を渡ることができた」|2025年6月26日|上記Science Advances二論文の概要、実験航海と数理シミュレーションの射程を確認。
URL:https://www.ehime-u.ac.jp/data_relese/pr_20250626_cmes/
国立科学博物館|「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」|旧石器時代航海研究の公式プロジェクト資料。神津島縄文航海の直接証明ではなく比較資料として参照。
URL:https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/
河津町教育委員会|『河津町見高段間遺跡』|1980年|発掘調査報告書の書誌を確認。
URL:https://sitereports.nabunken.go.jp/103051
早稲田大学縄文社会研究プロジェクト|「池谷信之 研究業績/2025年の研究成果」|2025年|2025年時点の黒曜石考古学、中期~後期の供給変化、見高段間原石研究の刊行状況を確認。
URL:https://prj-jomonkaken.w.waseda.jp/results/results-ikeya/
新泉社|池谷信之『黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡〔改訂版〕』|2026年3月20日|2026年改訂版の刊行日、目次、出版社による内容紹介を確認。
URL:https://www.shinsensha.com/books/8164/

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