脱炭素時代の船舶燃料:毒・腐食・漏えいが問題の主役に

船舶燃料の新潮流とは何か?

近年、海運業界では船舶用の新たな燃料が大きな注目を集めています。従来の船舶は重油(重質燃料油)を燃料として走ってきましたが、気候変動対策のため二酸化炭素(CO₂)排出削減が求められ、世界的に船舶燃料の脱炭素化が進み始めました。船舶からのCO₂排出は世界全体の約3%にのぼり、大気汚染による健康被害(年間およそ10万人の早死)も指摘されています。こうした背景から、単によく燃える燃料を求めるだけでなく、環境に優しい新燃料への転換が課題となっています。

しかし、新しい燃料に切り替えれば万事解決というわけではありません。むしろ燃やす以外の課題 がクローズアップされています。具体的には、毒性・腐食性・漏えいリスクといった安全面の問題です。例えばアンモニアやメタノールは次世代船舶燃料の有力候補ですが、それぞれ取り扱い上の難しさがあります。アンモニアは燃焼時にCO₂を出さないクリーン燃料と期待される反面、強い毒性と腐食性があり取扱いに細心の注意が必要です。一方メタノールは液体燃料で扱いやすく、既存船舶への導入もしやすいものの、燃焼時の排出物の処理や燃料を安定供給できるかが論点となっています。つまり、新燃料の導入にあたってはいかに効率よく燃やすかより、いかに安全に取り扱うかが主役になりつつあるのです。

本記事では、船舶燃料をめぐるこの新しい話題について、全く知らない方にも興味を持っていただけるよう解説します。なぜこうした新燃料が求められるのか、世界の動向や日本の状況はどうなっているのか、経済への影響や今後の課題は何かを紹介します。

新燃料が必要とされる背景

まず、なぜ船舶で新しい燃料が必要なのでしょうか。その最大の理由は、地球温暖化への対策です。国際海事機関(IMO)は海運からの温室効果ガス排出削減を強力に推進しており、2050年までに実質ゼロ排出(ネットゼロ)を目指す戦略を採択しました。例えば2023年に改訂されたIMOのGHG削減戦略では2030年までに船舶エネルギーの少なくとも5%、可能なら10%をゼロもしくは極めて低排出なエネルギー源に転換する目標が掲げられています(2050年にはネットゼロ目標)。また欧州連合では燃料EUマリタイム規則などにより、船舶燃料の炭素強度を段階的に削減する法制度も始まりました。このように国際的な規制強化が進む中、海運各社は従来の重油に代わる低炭素・無炭素の燃料を模索せざるを得なくなっています。

従来燃料である重油や海洋軽油は安価でエネルギー密度も高く扱いやすい反面、燃焼時にCO₂のほか硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)、粒子状物質(PM)など有害物質を大量に排出します。近年は排ガス規制の強化で硫黄分の少ない低硫黄燃料油やLNG(液化天然ガス)への転換も進みましたが、それでもCO₂排出削減という根本課題には限界があります。そこでゼロエミッション燃料として期待されるのがアンモニアや水素です。これらは燃焼時にCO₂を排出しないため理論上は脱炭素を実現できます。またメタノールやバイオ燃料など炭素を含むものでも、再生可能エネルギー由来で生産すればライフサイクル全体で排出ゼロに近づけることが可能です。つまり、新燃料は気候変動対策の切り札として期待されているわけです。

同時に、新燃料への転換はエネルギー安全保障や経済戦略の観点からも注目されています。たとえばアンモニアや水素は将来的にエネルギーの国際取引(燃料の輸出入)の形を変える可能性があります。中東やオーストラリアなど太陽光・風力資源に恵まれた地域でグリーン燃料を大量生産し、世界の船舶に供給するといった新たな産業機会も見込まれています。また日本のようにエネルギー資源に乏しい国にとっては、こうした燃料の国際ルール作りで主導権を握りつつ自国産業の競争力を維持・強化する狙いもあります。実際、日本政府は次世代船舶燃料の開発とルール整備に積極的で、IMOにも提案を行っています。新燃料の普及は単なる環境問題に留まらず、将来の産業構造やエネルギー市場を左右する経済的なテーマでもあるのです。

以上のように、新燃料が求められる背景には気候変動対策の緊急性と新たな経済チャンスの両面があります。しかし、それらを実現するには乗り越えるべき技術的・安全面的ハードルが多いことも忘れてはなりません。次章からは具体的な燃料について、世界と日本の動向、利点と課題を見ていきましょう。

アンモニア燃料:有望だが安全設計が別物

アンモニア(NH₃)は炭素を含まないため、燃焼してもCO₂を排出しないクリーン燃料として期待されています。国際エネルギー機関(IEA)も将来のカーボンニュートラル達成に向けた鍵となる燃料の一つにアンモニアを挙げています。海運大手やエンジンメーカーもアンモニア燃料エンジンの開発競争を繰り広げており、例えばドイツのMANエナジーソリューションズ社は2026年初頭にも世界初のアンモニア二元燃料エンジンを実用化する計画です。また日本のジャパンエンジン(J-ENG)も2026年にデュアルフューエル機関を完成させ貨物船に搭載予定と報じられています。このようにアンモニア燃料船の実現に向けた技術開発は世界で急ピッチで進んでおり、実証段階から商用段階へと近づきつつあります。

しかし、アンモニアを船で使うには課題が山積しています。最大の懸念は安全性です。アンモニアは有毒であり、人が吸い込めば命に関わる危険があります。さらに金属を腐食させる性質や、常温では気体のため船舶では約-33℃に冷却して液体で保管する必要がある点も扱いを難しくしています。加えて引火点(燃えだす温度)が摂氏650℃程度と高く燃えにくい燃料でもあり、エンジンで確実に燃焼させるには着火用のパイロット燃料が要ったり燃焼制御が難しいという技術的課題もあります。このようにアンモニア燃料を安全かつ安定的にエンジンで燃やすためには、従来の重油とは桁違いに厳格な設計・運用対策が必要になります。

具体的な安全設計の例としては、アンモニア用の燃料タンクや配管は二重殻構造にして漏えいを防ぐ、万一漏れても乗組員が被曝しないよう居住区画から十分離す、漏れ検知センサーや強制換気装置を至る所に配置するといった対策が考えられています。腐食対策として、アンモニアに強いステンレス鋼や特殊合金を材料に用い、応力腐食割れ(ひずみ下での亀裂)を防ぐ必要もあります。要するに、船全体の設計コンセプトをゼロから見直すほどの大改造が求められるわけです。そのため国際的な安全基準の策定も急がれています。IMOでは日本などの提案を受け、2022年からアンモニア燃料船の安全基準づくりを進めてきました。2024年12月のMSC 109で、アンモニアを燃料として使う船の安全に関する暫定ガイドラインが承認され、2025年2月にMSC.1/Circ.1687として発行されました。国際的な安全要件の共通土台が整い、アンモニア燃料船の設計・審査を進められる段階に入りました。一方で、実運用には旗国承認や船級規則、燃料供給・訓練などの整備が引き続き重要です。

世界の海運各社も慎重ながら動き出しています。アンモニアを実際に燃料として使う船は、まず港内用途などリスクを管理しやすい現場から実証・実運用が始まり、外航の大型船は2026年以降に初号が出てくる見通しです。この過渡期に各社が取りやすいのが、いきなりアンモニア専焼に飛び込むのではなく、将来の燃料転換を前提にした「アンモニアレディ(アンモニア燃料への改造を想定した設計)」という段階的アプローチです。たとえば日本郵船(NYK)は、グループ会社のMTIおよびElomaticと共同で、LNG燃料船からアンモニア燃料船へ効率よく改造できる「アンモニアレディLNG燃料船(ARLFV)」のコンセプト設計を2022年に完了しています。ベルギーの海運会社CMB社向けのアンモニアレディLNGコンテナ船が2023年に中国で建造・引き渡されています。まずは当面LNGで運航しつつ、将来アンモニアエンジンが信頼できるようになれば主燃料をLNGからアンモニアに切り替える、という戦略です。このようにまずは準備船を造り、機が熟せばアンモニアに転換という段取りでリスクを抑えているのです。

一方、日本国内でも世界初に向けた挑戦が始まっています。日本財団の支援で開発されたアンモニア燃料タグボート「すいそみらい」(旧名「魁(さきがけ)」)はその代表例で、2023年に改造工事が完了し世界初の商用アンモニア燃料船として東京湾で実証運航を行いました。このタグボートではIHI原動機が開発したアンモニア対応エンジンを搭載し、実際に港内作業に従事しながら約3か月間の試験を成功裏に終えています。また商船三井住友商事なども大型のアンモニア燃料バルカー(ばら積み貨物船)の設計研究を進めており、日本政府(国土交通省)は産学官でエンジン開発や安全技術の確立を支援しています。官民挙げた開発競争により、2028年度までに商用大型アンモニア船を建造するという目標も掲げられている状況です。

アンモニア燃料のメリットは何と言ってもGHG(温室効果ガス)ゼロの潜在力ですが、実際には排出物対策も重要です。アンモニアを燃焼させると窒素由来の副生成物が出ます。具体的には一部が一酸化二窒素(N₂O)という強力な温室効果ガスになったり、燃焼温度によってはNOx(窒素酸化物)が発生します。さらに燃え残ったアンモニア(未燃焼アンモニア)が排気中に混じると、大気中で微小粒子(アンモニウム塩)となり大気汚染や健康被害につながります。2024年のMITの研究では、現在の排ガス規制のまま世界の船舶がアンモニア燃料に切り替わると年間約60万人もの早死を引き起こす可能性があると警鐘を鳴らしています。もっとも、適切な技術対策(触媒によるN₂O分解やNOx削減装置の導入など)を施せばむしろ従来よりも健康被害を減らせるとの試算も示されており、アンモニアは有害だからダメと決めつけるのではなく総合的な対策パッケージが重要だといえます。例えば、自動車で触媒コンバータが排ガス清浄に不可欠であるように、船舶アンモニアエンジンにも高度な排ガス後処理装置の義務付けが必要になるでしょう。この点もIMOが今後検討を進める課題です。

以上、アンモニア燃料はCO₂を出さないという画期的メリットの裏に、多くの安全・環境上のチャレンジがあります。しかし技術者や船員の間では扱いに慣れさえすれば大丈夫という声も徐々に増えつつあります。2025年の国際報告によれば安全設計の統合が依然最大の課題だが、必要な技術や対策は既に確立されてきているという評価もあり、乗組員も経験を積むにつれアンモニア扱いに対する抵抗感が薄れているといいます。初期のアンモニア燃料船は当面、寄港中や港内操船時にはアンモニアを使わず安全を確保する運用になる見通しですが、それも慣れとともに解消していくでしょう。重要なのは、焦らず慎重にマラソンで言えばまだ序盤との認識でインフラ整備や人材育成を進めることです。アンモニア燃料が主流となるには時間がかかりますが、一歩ずつ確実に実現へ近づいています。

メタノール燃料:扱いやすいが排出物と供給に課題

次に注目されるメタノール(CH₃OH)燃料について見てみましょう。メタノールはアルコールの一種で、常温常圧で液体という性質から船舶燃料として取り扱いやすいことが大きな利点です。有毒なアンモニアとは異なり、人間にとっての急性毒性は比較的低く(とはいえ飲んだり大量に吸引すれば危険ですが)、腐食性もアンモニアほど強烈ではありません。そのため、既存の燃料タンクやパイプラインを改修して利用しやすく、港湾設備や船員教育の面でもハードルが低いとみなされています。

さらにメタノールは燃焼時の排出ガスがクリーンです。硫黄分を含まないためSOx(硫黄酸化物)はゼロ、燃焼温度が低めなことからNOxも大幅に低減でき、粒子状物質や黒煙もほとんど出しません。実測でも、メタノール燃料エンジンのNOx排出量は重油使用時のおよそ40〜50%程度に抑えられることが報告されています。SOxに至っては事実上ゼロで、IMO硫黄規制海域(SECA)の基準も余裕でクリアします。このように、大気汚染物質の点ではメタノールは従来燃料より格段に優れ、環境負荷の低い船舶燃料として世界的に脚光を浴びているのです。

こうした利点から、メタノール燃料船の導入は世界で最も先行しています。実はもう既にメタノール燃料で航行する大型船が登場しており、デンマークの海運大手A.P.モラー・マースク社は2023年に世界初のグリーンメタノール対応コンテナ船を就航させました。この船は韓国の造船所で建造され、9月に韓国からヨーロッパへの処女航海を成功させています。マースク社はさらに16,000TEU級の大型コンテナ船など合計18隻ものメタノール燃料船を2024〜25年にかけて就役させる計画で、次々と竣工中です。他にもフランスのCMA-CGM社やドイツのハパックロイド社、中国のCOSCO社など主要海運各社がメタノール船を発注しています。例えばハパックロイドは2025年末にメタノール二元燃料の新造コンテナ船8隻を発注したと報じられました。台湾の長栄海運(エバーグリーン)はなんと24隻もの巨大コンテナ船にメタノール燃料仕様を採用すると発表しています。このように世界の新造船マーケットでメタノール燃料船の占める割合が急増しているのです。実際、2024年前半時点で見ると、世界で建造計画中の代替燃料対応船は578隻にのぼり、その内訳はLNG燃料船が221隻と最多、次いでメタノール燃料船が135隻で第2位を占めています。これはわずか数年前には考えられなかったスピードで、メタノールが船舶燃料の本命候補として台頭してきた証と言えます。

日本も例外ではありません。日本企業でも、メタノール燃料船の取り組みは計画から竣工・就航へ進みました。たとえば日本郵船グループでは、グループ初となるメタノール二元燃料ばら積み船が2025年5月に常石造船・常石工場で竣工し、「Green Future」と命名のうえ引き渡されています。 メタノールと重油の両方を使える二元燃料エンジンを搭載し、将来的にはバイオメタノールや再エネ由来の水素+回収CO₂からつくるeメタノールの活用によって、温室効果ガス排出を大きく減らす運用を想定しています。また商船三井グループでは、国内初のメタノール燃料内航船として、内航ケミカルタンカー「第一めた丸」が2024年7月に命名・進水し、同年12月に引き渡し予定と発表されました。 その後、建造元(カナサシ重工)の公表では2024年12月に竣工式が実施されており、 さらに業界紙では国内メタノール輸送で就航した旨が報じられています。
川崎近海汽船もメタノール燃料のフェリー構想を打ち出すなど、国内船社も動き始めています。

燃料供給面では、三菱ガス化学(MGC)伊藤忠商事といった国内企業が先陣を切っています。MGCは日本初のメタノール燃料自動車運搬船2隻(トヨフジ海運が2027年就航予定)に対し、自社で生産するメタノールを供給すると発表しました。同社によればメタノールは常温常圧で液体で扱いやすく、燃焼時のSOx・NOx・PM排出が少ないことからクリーンエネルギーとして有望であり、国内でもメタノール燃料船の実用化に大きく前進するとしています。実際、同社グループの国華産業が保有する既存のメタノールタンカーを活用して、国内で初めてメタノール燃料の船舶バンカリング(補給)を行う計画も進行中です。このように、日本でも燃料供給インフラの整備が少しずつ始まっており、メタノール燃料船普及に向けたエコシステム構築が動き出しています。

もっとも、メタノール燃料にも課題はあります。まず一つは排出物の問題です。CO₂を含むメタノールを燃やすと当然CO₂が出ます。メタノール1モルあたりCO₂は1モル出る計算で、エネルギー当たりのCO₂排出量は重油よりは低いもののゼロではありません。したがってメタノール燃料が真にクリーンとなるには、原料となるCO₂を大気から回収したりバイオマス由来にする必要があります(いわゆるグリーンメタノール)。もう一つはホルムアルデヒド等の副生成物です。メタノールは高温で分解燃焼しますが、エンジン内の冷却部位や隙間で一部が不完全燃焼を起こし、ホルムアルデヒド(有毒なVOC)として排出される可能性があります。自動車用エンジンではアルコール燃料からのホルムアルデヒド排出が問題視された例もあり、船舶でも将来的に排ガス中のホルムアルデヒド規制が議論されるかもしれません。この点に関しては、エンジンメーカー各社が燃焼最適化や排ガス後処理触媒で対策を進めており、極端に恐れる必要はありませんがメタノールだから公害ゼロという油断は禁物です。

もう一つの課題は燃料供給とコストです。メタノールは現在、世界生産量の大半が化学工業原料(プラスチックや接着剤などの材料)向けであり、燃料用途はまだごく僅かです。世界の海運で必要となる燃料メタノールを賄うには、現状のメタノール生産設備を大幅に増強しなければなりません。特にグリーンメタノールを大量生産するには、再生可能エネルギー由来の水素と回収CO₂を反応させるプロセスが必要で、これは巨額の投資と安価な再エネ電力の確保が前提となります。国際的な推計では、2030年時点で船舶燃料全体の5%をメタノール等の新燃料に置き換えるとの目標に対し、現状策ではその燃料需要の3分の1程度しか供給が見込めないとの分析もあります。つまり燃料生産インフラの整備が追い付かない可能性が懸念されています。この問題はアンモニア等他の燃料にも共通しますが、要はエンジンを造っても燃料が無いという事態を防ぐため、燃料生産側への投資や政策誘導が不可欠です。

コスト面でも、メタノール燃料はまだ割高です。現状、重油やLNGに比べれば2〜3倍、場合によっては5倍近い価格になるとも言われます。航路にもよりますが、燃料費が海運会社の経費に占める割合は大きく、仮に燃料コストが数倍になれば運賃の上昇につながりかねません(ここは不明:正確な上昇幅は燃料市況や炭素価格次第です)。実際には規制強化で化石燃料にも炭素課金が科されるため差は徐々に縮まるはずですが、少なくとも初期段階ではグリーン燃料の導入に追加コスト負担が避けられません。船主や荷主にとって経済的なインセンティブをどう用意するかが、普及のカギを握るでしょう。

幸い、近年は荷主側にもグリーン志向が生まれており、多少コスト高でも環境配慮型の海運サービスを選ぶという動きが出てきました。2023年の国際調査によれば、8割以上の荷主企業がグリーン海運にプレミアムを支払ってもよいと回答し、その許容プレミアムは平均で15%程度という結果もあります。もちろん言うは易しで、本格的に運賃転嫁となれば各社の思惑も交錯するでしょうが、少なくとも市場に脱炭素にコストを払う意志が芽生えているのは追い風です。今後はEUの排出権取引や国際的な炭素徴税なども視野に入れ、グリーン燃料への移行を経済的に促す政策デザインが重要になるでしょう。

その他の代替技術:原子力・風力・電池も視野に

アンモニアやメタノール以外にも、船舶の脱炭素化に向けた多様なアイデアが検討されています。国際海事機関(IMO)は原子力・風力・電気推進なども含めた包括的な安全規制整備に乗り出しました。2026年1月に開催されたIMOの船舶設計・構造小委員会(SDC 12)では、核動力船、風力利用推進、リチウムイオン電池(交換式含む)について安全ルールを検討する作業計画がとりまとめられています。この計画は2026年5月の海上安全委員会(MSC 111)で正式承認される見込みで、今後各分野で本格的なルール作りが進むでしょう。

原子力船は最も議論を呼ぶ分野かもしれません。原子力エンジン(小型原子炉)を船舶に搭載すればCO₂も大気汚染物質も一切出さず、燃料補給なしで長期間航行できるという大きな利点があります。実際、軍用では原子力潜水艦や空母、砕氷船などに半世紀以上の実績があります。しかし商船となると、核拡散の懸念や事故時の影響から実用化は進みませんでした。過去にはアメリカのサヴァンナ号(NS Savannah)や日本のむつ(試験船)など数隻が試験的に造られましたが、いずれも商業的には成功しませんでした(むつは放射線漏れトラブルも起こし、その後原子炉を降ろされ博物館船となっています)。ところが近年、温暖化対策の究極兵器として再び原子力への関心が高まりつつあります。特に小型モジュール炉(SMR)など新世代の原子炉技術を船舶に応用しようと、欧米のベンチャー企業(米国のビリングス社や英国のコアパワー社など)が具体的プランを打ち出しています。IMOが安全ルール整備に着手したのも、業界から原子力推進を現実的選択肢として検討したいとの声が上がっているからです。もっとも日本においては、福島事故以降の社会的風評もあり商業原子力船は実現可能性は未知数です。しかし世界的なルールが整えば、日本の海運会社も将来的に検討に加わる可能性は否定できません。

風力利用は、実は海運にとって古くて新しいテーマです。かつての帆船のように風の力で走る船を現代技術で実現しようという試みで、いくつかの方式があります。代表的なのは自動展開式の帆や硬質の翼(ウィングセイル)を甲板上に設置するタイプ、円筒を回転させて揚力を得るファンネル(ローター)セイル、あるいは洋上で凧を揚げて船をけん引する方式などです。近年、大型商船にこれら風力補助推進を導入するケースが増えてきました。例えばイギリスのCargill社が運航するバルク船「Pyxis Ocean」には巨大な自動展開式の硬質帆が取り付けられ、2023年に実海域試験が行われています。また日本では商船三井が開発したWind Challenger計画が実を結び、2022年には石炭運搬船「翔風丸(しょうふうまる)」が世界初の硬翼帆を実装して竣工しました。翔風丸は全長55メートルの巨大な一枚帆で風力を推進力に変え、航海日あたり最大17%の燃料削減効果、航海全体平均でも5〜8%の省エネを達成しています。これは輸送する石炭1トンあたりの排出削減にも直結し、高く評価され同年の「シップ・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。風力は天候に左右されるため安定した動力源にはなり得ませんが、タダで得られるエネルギーは使わない手はないとの発想で、既存船隊にも後付け導入が進む見通しです。IMOの作業計画でも2029年までに風力推進船の安全ガイドラインを策定する目標が掲げられており、今後標準的な選択肢として認知されるでしょう。

リチウムイオン電池を使った電気推進も重要なオプションです。電池は走行中に一切排ガスを出さないクリーンな動力ですが、欠点はエネルギー密度が低いことです。大型船が長距離航海するには莫大な電力量が必要で、現行の電池技術では現実的ではありません。そのため電池推進が活躍できるのは短距離の内航船やフェリーなどに限られます。それでも技術革新は日進月歩で、小型船では続々と実用化されています。世界初の完全電気推進タンカー「ASAHI(旭)」は東京湾内で重油を運ぶ内航船として2022年に就航しました。川崎造船で建造されたこのe5タンカーシリーズは、大容量リチウム電池だけで全航行を賄いCO₂排出ゼロを実現しています。また欧州ではノルウェーを中心に電気フェリーが数多く運航し、港で充電するスタイルが定着しつつあります。さらに将来は、標準コンテナサイズの交換式バッテリーユニットを港で積み替えることで長距離にも電気推進を適用しようという構想もあります(IMOの議論にも「交換式バッテリーコンテナ」の文言が盛り込まれています)。安全面では電池火災(熱暴走)のリスクが課題で、消火システムの特別な設計や運用上の制限(充電率の管理など)が検討されています。この分野もIMOは2028年までにSOLAS条約を改正し、電池を主電源として利用できるよう安全要件を整備する計画です。

このように、海運の脱炭素化にはあらゆる選択肢が追求されています。実際の商船では、単一の画期的燃料に置き換わるというより組み合わせ技で挑む形になりそうです(ここは推測です)。例えば主機関はメタノールやアンモニアでCO₂を減らしつつ、洋上は風の力を借りて省エネ、港内ではバッテリー航行でゼロエミッション、といった具合です。また将来的に核動力の商船が実現すれば、長大な航路では原子炉、沿岸近くは電気というハイブリッド運用も考えられるでしょう(もっとも社会受容性や規制次第で実現性は不明です)。重要なのは、どの技術もメリット・デメリットがあり銀の弾丸は存在しないという点です。したがって規制当局も業界も、広い視野で複数の技術オプションを成熟させ、用途や条件に応じて最適な組み合わせを導入していく必要があります。

経済への影響と今後の課題

最後に、新燃料シフトがもたらす経済面への影響と、今後残された課題について整理します。

経済への影響

船舶燃料の脱炭素化は、海運業界全体で見れば巨額の投資プロジェクトです。船そのものの改造・建造費用に加え、燃料の生産プラント、新たな貯蔵設備やバンカリング船、港湾インフラ、そして燃料供給網の構築など、サプライチェーン全般で投資が必要になります。国際海事機関の推計では、2050年までに海運業の脱炭素化に必要な追加投資額は1兆〜1.4兆ドル(約150兆円)にも達するとされています。毎年500億〜700億ドル規模の継続的投資が30年近く求められる計算で、これは海運業界単独では到底賄えない大きさです。そのためエネルギー企業、金融機関、各国政府も巻き込んだ官民連携の資金動員が課題となります。逆に言えば、これだけの投資需要があるということは巨大なビジネス機会でもあります。新燃料の生産・供給、新造船や改造需要、関連するエンジニアリングや設備産業など、裾野の広い市場が生まれます。日本にとっても、この波に乗ることで停滞気味だった造船業の復活やエネルギー産業の新展開につなげるチャンスがあるでしょう。

実際、世界では中東産油国が水素・アンモニア輸出国への転身を図ったり、欧州が先進的なグリーン燃料プロジェクトに資金投入する動きが活発化しています。日本も2023年にグリーンイノベーション基金からアンモニア船や燃料供給拠点の構築に支援を行うなど、国家的な産業政策として動き始めました。ただし一方で、新燃料の普及によって輸送コスト上昇が生じれば、最終的には消費者物価や貿易構造にも影響します。輸送コストが上がれば遠隔地から安価な製品を輸入するメリットが減少し、地産地消やサプライチェーンの地域化が進むかもしれません(ここは推測です)。経済への波及は多岐にわたるため、単純なプラス・マイナスで語れるものではなくトレードオフの管理が重要です。

今後の課題

技術開発・ルール整備・インフラ構築・人材育成と、課題は山積しています。技術面では、アンモニアエンジンの耐久性向上やメタノールエンジンの効率改善、大容量電池や安全な原子炉設計など、各分野でブレークスルーが期待されます。規制面では、IMOを中心に国際的な安全基準や環境基準を迅速に整えていく必要があります。先述のようにアンモニア船ガイドラインは2024年にまとまりましたが、今後はこれを各国が国内法に取り入れ、実際の船級規則や設計基準として落とし込むプロセスがあります。また現在議論中のライフサイクルGHG評価(Well-to-Wake評価)も課題です。燃料を製造する過程の排出まで考慮しないと本当の脱炭素とは言えないため、IMOでは燃料のライフサイクル排出指標を策定しようとしています。例えばアンモニアであれば製造時のCO₂排出が多い「グレーアンモニア」ではなく再エネ由来の「グリーンアンモニア」を使うよう促す仕組み作りが求められています。こうした総合的な基準づくりは技術以上に難航するかもしれません。

インフラ面では、燃料供給網の確立が喫緊の課題です。アンモニアにしてもメタノールにしても、鶏が先か卵が先かの問題があります。燃料が無ければ船は造れず、船がいなければ燃料生産設備も商業化しにくいというジレンマです。これを打破するには、政府の補助や大口需要家のコミットメント(例:航路ごとのグリーンコリドー協定で需要を保証する)など工夫が必要でしょう。日本でも例えば商社や電力会社が将来の需要を見越して燃料プラント建設に投資する動きが出てくると、流れが加速するはずです。

人材・オペレーションの課題も忘れてはなりません。新燃料を扱うには、船員や港湾作業者への専門教育が要ります。特に有毒なアンモニアや高圧水素などは危険物取扱のノウハウが不可欠です。現在でもガス燃料船(LNG船など)の乗組員には特別な資格や訓練が要求されますが、アンモニアや水素ではさらに高度な訓練プログラムが求められるでしょう。各国の海事教育機関やシミュレーター設備の充実も急務です。また有事の際の事故対応能力も問われます。例えばアンモニア漏洩事故が起きたら周囲何kmを避難させるのか、消火や浄化はどう行うのか、といった緊急対応マニュアル策定と備品整備も必要です。幸い、多くの知見は既存の化学タンカー輸送などから流用できますが、実際に乗組員が安心して働ける職場環境を整えることが普及の前提条件となります。

最後に、経済合理性と規制強度のバランスも課題です。もし規制が緩すぎれば業界は動かず、厳しすぎれば海運コスト高騰で世界経済に悪影響が出る可能性があります。IMOや各国政府には、野心的かつ実効的な政策設計が求められています。カーボンプライシングでクリーン燃料を価格面で有利にする、初期導入期には補助金や税制優遇で支える、燃料サプライヤー・造船所・船主・荷主を結ぶグリーンコリドープロジェクトでリスクと利益を共有する、といった包括的な産業政策が鍵となるでしょう。日本にとっても、世界の潮流に取り残されないよう官民一体で戦略を描き、経済界全体で取り組む必要があります。

おわりに

船舶の新燃料をめぐる動きは、技術・安全・環境・経済が交錯する総合課題です。一見マニアックな造船技術の話に思えるかもしれませんが、そのインパクトは私たちの生活や産業に広く及びます。いま世界ではCO₂削減という共通目標の下、競合他社同士も協力して前例のない挑戦に立ち向かっています。アンモニアやメタノール、あるいは原子力から風力・電池まで、様々なソリューションが試されている状況はまさに技術史的にもエキサイティングな転換期です。

燃えるだけじゃない燃料の話は一見ネガティブな響きですが、その裏には安全と環境を両立させようとする人類の知恵と努力があります。毒性・腐食・漏えいといった課題に真正面から向き合い、一つ一つ乗り越えていくことで、持続可能な海運への道筋が開けてくるでしょう。私たち一般消費者も、この動きを他人事ではなく注視していく必要があります。なぜなら、海運は世界経済の血流であり、その変化はやがて商品価格や流通、ひいては地球環境に跳ね返ってくるからです。

幸い、ここまで見てきたように世界と日本の取り組みは少しずつ成果を上げつつあります。技術開発は確実に進み、ルール作りも動き出しました。経済界の意識も変わり始めています。もちろん課題は多く簡単な道のりではありませんが、脱炭素時代にふさわしい船舶燃料の実現に向けて、今後も挑戦が続いていくことでしょう。本記事が、その壮大な挑戦の一端を知るきっかけになれば幸いです。

参考

<Study finds health risks in switching ships from diesel to ammonia fuel | MIT News | Massachusetts Institute of Technology>
https://news.mit.edu/2024/study-finds-health-risks-switching-ships-to-ammonia-fuel-0711
<アンモニアの船舶燃料としてのガイドラインがIMOにより2024年12月に承認へ~水素キャリアとしてのクラッキング技術開発は国際間アンモニア流通に間に合うのか~ – BAUM Consult Japan>
https://baumconsult.co.jp/2023/12/06/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%88%B9%E8%88%B6%E7%87%83%E6%96%99%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8Cimo/
<日本初、国内自動車運搬船向けに当社のメタノールを燃料供給へ | 当社について | 三菱ガス化学株式会社>
https://www.mgc.co.jp/corporate/news/2024/240618.html
<A new climate deal for shipping: Three decades to zero>
https://blogs.worldbank.org/en/transport/new-climate-deal-shipping-three-decades-zero
<報道発表資料:アンモニア燃料船の安全基準が策定される予定です
~国際海事機関(IMO)第109回海上安全委員会(MSC 109)の開催について~ – 国土交通省>
https://www.mlit.go.jp/report/press/kaiji06_hh_000333.html
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<Maersk names world’s 1st large methanol-powered containership – Offshore Energy>
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<シンガポール及びマレーシアにおける船舶の次世代燃料への転換動向調査 - 一般社団法人 日本舶用工業会、一般社団法人 日本船舶技術研究協会>
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<日本郵船グループ運航ばら積み船で初のメタノール二元燃料船を定期傭船 | 日本郵船株式会社>
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<2030 shipping goal at risk despite historic progress made by IMO: New report | Global Maritime Forum>
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<MOL Group Earn 2 Awards in ‘Ship of the Year 2022’- World’s 1st Coal Carrier Equipped with Wind Challenger, Shofu Maru, Named Ship of the Year 2022; Japan’s 1st LNG-fueled Ferry Sunflower Kurenai Wins in Large Passenger Ship Sector – | Mitsui O.S.K. Lines>
https://www.mol.co.jp/en/pr/2023/23065.html
<世界初の「EVタンカー」就航の裏にあった東京電力エナジーパートナー社員の尽力 | Concent>
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<Maritime decarbonization is a trillion dollar opportunity – Ammonia Energy Association>
https://ammoniaenergy.org/articles/maritime-decarbonization-is-a-trillion-dollar-opportunity/

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