藤原四兄弟の死とは何か 奈良時代の疫病と政変

藤原四兄弟の死とは、天平九年(737)の疫病流行のなかで、藤原不比等の四子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂が短期間に相次いで没した出来事です。重要なのは、これが有力貴族の不幸にとどまらず、奈良時代の律令国家が感染症でどこまで揺らぐかを露呈し、政権構成、税制運用、医療行政、宗教政策、対外交通認識までを変えた点にあります。『続日本紀』は、この年の疫瘡が筑紫から広がり、公卿から百姓に至るまで数えきれない死者を出したと記しており、近年の研究も、地方正税帳や考古資料を用いてその破壊力を再評価しています。

ただし、病名は完全には確定していません。従来は天然痘説が有力でしたが、天平九年の官符に見える赤斑瘡という病名や記載症状から、麻疹説やチフス説も提起されています。さらに、近年の病原体ゲノム研究は、天然痘ウイルスと麻疹ウイルスの成立時期をめぐる理解を更新しましたが、それだけで737年の病名を断定できるわけではなく、むしろ文献症状の読み解きがいっそう重要になったと見るべきです。

概要

藤原四兄弟とは、藤原不比等の子である藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂を指します。一般には、四人は長屋王の死後に朝廷中枢で大きな影響力を持ち、その後の藤原氏四家、すなわち南家・北家・式家・京家の祖となった人々として知られます。天平九年には房前が春に、麻呂・武智麻呂が夏に、宇合がその後に相次いで没し、「四兄弟政権」は事実上崩壊しました。

この出来事が重要なのは、当時の国家中枢が人事・行政・軍事・儀礼のすべてにおいて人的ネットワーク依存だったからです。実際、同年六月には官人の多くが疫病で倒れたため朝廷が政務停止に追い込まれ、公卿八人のうち五人が死亡したとされます。つまり、藤原四兄弟の死は有力者が亡くなった事件ではなく、国家経営の頭脳部分が感染症で麻痺した事件として見る必要があります。

一方で、現在の研究では、従来当然視されてきた「藤原四子体制」や「武智麻呂政権」という見方自体が再検討されています。近年の研究は、四兄弟が本当に一枚岩の統治主体だったのか、あるいは後世の整理でそう見えていただけなのかを問い直しています。したがって、四兄弟が権力を握っていたので、その死で政権が一挙に崩れたと単純化しすぎないことが、2026年時点では重要です。

時代背景

天平期の日本は、平城京を中心とする律令国家の完成期であり、同時にその脆さが露出し始める時期でもありました。平城京には市場が置かれ、唐・新羅・渤海との交流も活発で、人と物が集まる人口密集都市が形成されていました。奈良文化財研究所の整理でも、こうした都市集中と海外交流の活発化が疫病流行の背景として重視されています。

疫病の流入経路として、近年もっとも説得力を持つのは、九州を玄関口とする対外交通に注目する見方です。市大樹の研究は、735年から737年の疫病が九州を発生源としていた可能性が高く、諸外国との往来を通じて病原体が持ち込まれたとみています。とくに、帰京した遣新羅使の一行が十分に回復しないまま都に入ったことで、平城京に疫病をもたらした可能性が論じられています。

また、この時代は感染症だけの時代ではありません。天平九年の詔には、疫病とともに旱害や作物被害への対処が見え、復興政策の研究でも、疫病の影響は単独ではなく、農業生産や地域社会の動揺と重なって理解されています。つまり四兄弟の死は、感染症だけでなく、食料供給と国家財政の揺らぎが重なった複合危機のなかで起きた出来事でした。

政治的視点

四兄弟の死を政治史で見るときの核は、誰が倒れたかではなく、どの役割の担い手が消えたかです。武智麻呂は長子として重く見られ、房前は内臣としての位置づけを持ち、宇合と麻呂も参議や軍事・地方支配に関わる要職を担っていました。四人はそれぞれに役割が異なり、全員が同時に消えたことが国家に与えた衝撃は非常に大きかったと考えられます。

その結果、政界の主導権は橘諸兄へ移っていきます。近年の研究では、天平九年の疫病後に成立した橘諸兄中心の政治を、単なる藤原氏の後退とだけでなく、大災害からの復興を担う体制として評価し直す視点が強まっています。つまり、四兄弟の死は政敵の浮上を許したというより、朝廷が生き残りのために新しい権力配分を組み直した転換点でした。

同時に、この政治転換は後の不安定化も生みます。宇合の子である藤原広嗣が740年に挙兵した背景には、四兄弟の死後に式家の立場が不安定化し、諸兄・玄昉・吉備真備らが重用された状況がありました。したがって、737年は単なる終わりではなく、広嗣の乱や遷都の連続、さらには仲麻呂台頭へ続く政治連鎖の起点でもありました。

経済・制度・地政学的視点

天平九年の疫病は、地方社会と国家財政に直接打撃を与えました。諸国正税帳からは、出挙、すなわち国家や有力者が稲を貸し付けて利息つきで返させる制度において、返済前に死亡した者の割合が和泉監で44%、豊後国で30〜31%、長門国で14%、駿河国で30〜34%に達していたことが確認されます。これは前後年の1〜8%と比べて突出しており、地方の労働力と租税回収が深く傷んだことを示します。

よく知られる「人口の三分の一前後が死亡した」という推計は、ウィリアム・ウェイン・ファリスの研究に由来するもので、2020年代の研究でもなお参照されています。ただしこれは戸籍・税帳・後代史料をもとにした推計であり、全国一律の実測値ではありません。2023年の研究でも25〜35%、100万〜150万人という幅をもって紹介されており、有力推計だが、推定誤差を含むとするのが妥当です。

国家はこの危機に対し、単なる祈祷だけではなく、制度的対応も取りました。六月の太政官符は、諸国に対し治療法を伝達し、国司が部内を巡行して百姓に口頭で告示するよう命じ、必要なら官物から粥や食料を支給するよう指示しています。その後の復興政策としては、私出挙の禁止、東国防人の停止、京内徭銭の停止、健児の停止、諸国兵士の停止、国司借貸の停止など、農民負担と軍事動員を緩める措置が並びます。疫病は、律令国家の取り立てと動員の仕組みそのものをいったん緩めさせたのです。

地政学的に見ると、九州と都をつなぐ交通路は、富・情報・外交を運ぶ一方で、病原体も運びました。奈良文化財研究所と市大樹の整理は、当時の人々が疫病を外部世界から到来するものとして意識し、長門より東に道饗祭を命じるなど、交通の結節点で水際対策に似た発想をとったことを示しています。これは現代の地政学とは違う文脈ですが、交通支配の利益と感染リスクが表裏一体であった点は非常に現代的です。

技術・医療・文化・宗教的視点

奈良時代の朝廷は、疫病を前にして無力だったわけではありません。中央には典薬寮と内薬司があり、地方にも国医師が置かれていました。2026年の研究は、聖武朝に天平二年の施薬院設置が見え、典薬寮・内薬司の官人が侍医を兼ねるなど、医官の体制整備が進んでいたことを指摘しています。また、百姓に湯薬を与えた記事から、湯薬や薬酒の利用が身分の上下をまたいで広がっていたこともわかります。

ただし、その医療には明確な限界がありました。六月二十六日の太政官符は、食事制限や加温、粥の給付、人参湯などの使用を指示していますが、これは経験的な療養法であって、現代の意味で病原体に直接作用する治療ではありません。奈良文化財研究所の整理でも、大黄・青木香・黄連などの薬物は高価で、一部の高位者を除けば十分に行き渡らなかった可能性が高いとされています。つまり朝廷は何もしなかったのではなく、できる範囲の医学を総動員したが、それでも感染拡大を止められなかったのです。

宗教・呪術の面では、さらに興味深い展開が見えます。平城京の発掘では、呪符木簡、人形、土馬、人面墨書土器など、疫病退散を願う遺物が大量に見つかっています。二条大路のゴミ捨て穴から出た呪符木簡には、中国医学書『千金翼方』に類似する内容があり、奈良時代の人々にとって「まじない」と「医療」は明確に切り離されていなかったことがうかがえます。

さらに、長屋王邸跡と藤原麻呂邸の近辺から疫病関連遺物が出たことは、政治と宗教の結びつきを強く示します。奈良文化財研究所は、当時すでに「これは長屋王の祟りではないか」という噂が広まり、光明皇后の写経事業や長屋王の子らの名誉回復に、鎮魂の意味があった可能性を指摘しています。この見方は断定ではありませんが、疫病が御霊信仰の形成と結びつく契機の一つとして重要です。

歴史的意義と研究史

藤原四兄弟の死が歴史上重要なのは、奈良国家が法と官僚制だけで動く無機質な装置ではなく、人間関係・血縁・物流・宗教実践に支えられた脆弱なシステムだったことを、感染症が一気に可視化したからです。四兄弟の死後、朝廷は農民負担を軽減し、軍事動員を抑え、やがて741年の国分寺・国分尼寺建立の詔、743年の盧舎那大仏造立へと向かいます。東大寺の公式解説も、天然痘流行や広嗣の乱を含む激変の時代に、聖武天皇が仏教を通じた国家再建へ傾斜したと説明しています。

研究史をみると、古くはこの出来事は「735〜737年の天然痘流行」として比較的単純に理解されてきました。人口の大幅減少、四兄弟政権の崩壊、橘諸兄政権への交代という筋立ては、現在も大枠では有効です。しかし2020年代の研究は、第一に病名同定を、第二に対外交通と地方正税帳からみた実態を、第三に考古資料からみた民衆の対処を、第四に災害後の復興政策を、それぞれ細かく見直しています。

とくに更新が大きいのは病名をめぐる議論です。一般には天然痘説がなお強いものの、天平九年の太政官符の病名が赤斑瘡であること、症状にかさぶたや瘢痕の明示がないことから、麻疹やチフス説も出されています。2020年のウイルス進化研究は、天然痘・麻疹いずれも8世紀日本で存在し得たことを示唆しますが、737年日本の病名を直接証明したわけではありません。そのため2026年時点では、天然痘と断定する記事はやや古風であり、天然痘とみられるが、研究上は未確定とするのが最も誠実かと思います。

もう一つの更新点は、政治体制の理解です。近年の研究は、「藤原四子体制」「武智麻呂政権」という用語そのものを再検討し、本当に結束した単一政権だったのかを問い直しています。したがって、藤原四兄弟の死の意義は、単に「独裁政権が崩れた」ではなく、複数の有力ネットワークが折り重なっていた朝廷が、疫病によって再編を迫られたと捉えるほうが、現在の研究動向に合います。

当時の課題

この時代の最大の制約は、感染症が流行したときに、国家が徴税・軍事・官僚制・宗教儀礼を同時に維持しなければならなかったことです。労働力は減り、官人も倒れ、農村では出挙返済が滞り、都市では感染が広がり、しかも外部との交通を完全に止めることはできませんでした。平城京の発掘で、感染者の家の食器が大量廃棄された可能性が論じられていることは、当時の人びとが実践的な感染回避を模索していた証拠でもあります。

また、朝廷の医療知識は唐由来の医書に支えられていましたが、全国に均質に行き渡る制度ではありませんでした。高価な薬物、文字が読めない百姓への口頭伝達、地方差の大きい行政能力など、制度には大きなムラがありました。このため、国家の対策は常に公文書・口頭伝達・賑給・祈祷・呪術の混合形態にならざるをえませんでした。これを未熟と見るだけでは不十分で、むしろ当時の条件下で取りうる総合対応だったと理解すべきです。

まとめ

藤原四兄弟の死は、簡単に言えば、奈良時代の権力中枢が感染症で崩れた事件です。しかし本質は、四人の貴族が倒れたこと以上に、律令国家の限界と柔軟性が同時に露出したことにあります。朝廷は政務停止に追い込まれながらも、治療法の通達、食料給付、税負担の軽減、軍事動員の停止、祈祷や祭祀の動員、そして国分寺・大仏へとつながる国家再建策を打ち出しました。

また、このテーマは「人物史」と「感染症史」をつなぐだけではなく、交通史、地方財政史、宗教史、考古学を横断して初めて立体的に見えてきます。九州の対外交通、平城京の人口集中、正税帳に出る死亡率、呪符木簡や土馬、人面墨書土器、長屋王の祟りという噂、復興政策としての制度緩和。これらを重ねると、四兄弟の死は奈良国家の一断面ではなく、その構造全体を映す鏡だったとわかります。

現代人がここから読み取れるのは、感染症がいつの時代でも政治体制、物流、情報伝達、宗教実践、社会不安を同時に動かすという事実です。しかも、研究が進むほど単純な物語は崩れます。病名は未確定であり、政体の理解も再検討中です。だからこそ、この事件はすでに分かり切った歴史ではなく、2026年現在もなお問い直す価値のあるテーマだと言えます。

よくある疑問Q&A

Q.藤原四兄弟とは簡単に言うと何ですか

藤原不比等の四人の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂のことです。奈良時代前半の政界中枢にいた有力貴族で、後の藤原四家につながる祖先として知られます。天平九年の疫病流行で短期間に相次いで没したため、日本古代政治史の大きな転換点として扱われます。

Q.藤原四兄弟はいつ死んだのですか

天平九年(737)に、房前が春、麻呂と武智麻呂が夏、宇合がその直後に相次いで死亡しました。奈良文化財研究所の解説でも、房前の病没後、七月中旬から八月初旬の短い期間に残る三人が続けて亡くなったと整理されています。

Q.死因は天然痘で確定していますか

確定とは言い切れません。従来は天然痘説が有力ですが、天平九年の官符に見える赤斑瘡という病名や症状記述から、麻疹説やチフス説もあります。現在の書き方としては、「天然痘とみられるが、研究上は未確定」がもっとも適切です。

Q.なぜ歴史上重要なのですか

四兄弟の死で、時の権力中枢が一挙に空白化し、朝廷は政務停止まで起こす深刻な機能不全に陥りました。その結果、橘諸兄中心の政治再編、負担軽減策、仏教を軸とする国家再建、さらに国分寺・大仏造立へとつながる政策展開が進みました。重要なのは、人物の交代だけでなく、国家の運営原理そのものが揺れた点です。

Q.庶民にはどのような影響がありましたか

地方正税帳には、出挙を返せないまま死亡した人の割合が高く現れており、農民層に大きな被害が出たことがわかります。朝廷は粥や食料、湯薬を支給し、税や軍事負担の停止・軽減も行いましたが、被害はきわめて大きく、地方社会の再建には時間がかかりました。

Q.長屋王の祟りという話は史実ですか

史実として確認できるのは、長屋王の祟りとみる噂が広がった可能性が高いことまでです。奈良文化財研究所は、長屋王邸跡周辺の遺構や灯明皿、写経、名誉回復の動きから、鎮魂意識が働いたとみています。ただし、これは当時の人びとの理解や政治文化を示すものであり、現代の自然科学的な死因説明とは別です。

Q.現在の研究で特に見直されている点は何ですか

大きく二つあります。ひとつは病名同定で、天然痘説一辺倒ではなくなったことです。もうひとつは、「藤原四子体制」というまとまりの強い政権像そのものが再検討され、四兄弟の政治的結束や実態をより慎重に捉える研究が進んでいることです。

参考

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