耐故障量子計算(Fault‑tolerant Quantum Computing)の全貌と経済へのインパクト

はじめに

量子コンピューターは、ビットが「0」か「1」のいずれかしか取らない従来のコンピューターとは異なり、量子ビット(qubit)が「0」と「1」を重ね合わせた状態に置かれることで、並列に膨大な状態を扱えます。小さな回路であっても膨大な組み合わせを同時に処理する能力があるため、量子化学シミュレーションや最適化問題、機械学習など、古典的な計算機では実質的に不可能な課題の解決に期待が寄せられています。

ところが、量子ビットは外部環境からの振動や電磁ノイズにきわめて敏感で、情報が失われる「デコヒーレンス」が発生しやすいことが最大の課題です。量子コンピューターが実社会で役立つには、エラーを抑えて億単位の量子操作(Quantum Operations)を正確に実行できる「耐故障(fault‑tolerant)」な計算機が必要です。しかし現在利用できる量子ビットのエラー率は10⁻³〜10⁻⁴程度であり、長い計算を実行するには不十分です。産業用途では10⁻¹¹〜10⁻¹²という極めて低いエラー率が求められ、これは1個の量子ビットで到達するのは現状では不可能です。

このギャップを埋めるために研究が進められているのが量子誤り訂正(Quantum Error Correction: QEC)です。多数の物理量子ビットを束ねて一つの論理量子ビットを作り、繰り返し測定しながらエラーを検出・補正することで、情報を長時間保持しながら計算を進めることができます。特定のエラー率(しきい値)を下回っていれば、論理ビットを大きくするほどエラーが指数関数的に減少し、逆にしきい値を超えると論理ビットの方がエラーが悪化するという性質があります。各国の研究者がこのしきい値以下のエラー率で実験を行うことに成功し、耐故障量子計算へ向けたロードマップが加速しています。本記事では、世界と日本の最新動向、技術的課題、そして経済的な影響を詳細に解説します。

誤り訂正の基礎知識

物理量子ビットと論理量子ビット

物理量子ビットは単体ではエラー率が高く、長い計算を支えることができません。そこで多数の物理ビットを束ねて「論理量子ビット」を構成します。量子情報を冗長に符号化し、各ビットに付随する測定(シンドローム測定)からエラーの種類を推定し、リアルタイムで補正します。代表的な誤り訂正コードは次のとおりです。

  • 表面符号(surface code)
    隣接する量子ビット同士の局所的な相互作用だけでエラー訂正ができるため、超伝導回路やイオントラップで実装しやすく、現在最も実用化が進んでいます。ただし、論理ビットを1つ作るのに数百〜数千の物理ビットが必要で、大規模化すると配線や冷却の負担が大きくなります。
  • 色符号(color code)
    一部の量子ゲートを論理ビット上で直接実行(全変換)できるメリットがありますが、復号器が複雑で動的制御が難しいため実装例は限られています。
  • 量子LDPCコード(qLDPC)
    極めて大きな行列に情報を分散させることで、物理ビットの使用量を表面符号より大幅に削減できる可能性がある新しいコードです。IBMが2024年の論文で採用を発表し、物理量子ビットのオーバーヘッドを最大90%削減できると報告しています。ただし非局所的な相互作用が必要なため、ハードウェア設計やリアルタイム復号が難しいという課題があります。

誤り訂正の基本プロセス

論理量子ビットを構築する際には、以下の手順が繰り返されます。

  1. 符号化
    複数の物理ビットに量子情報を冗長に配置します。例えば表面符号では2次元格子に量子ビットを並べ、交互に配置されたデータビットと測定ビットに量子状態を分散します。
  2. シンドローム測定
    測定ビットを順次測定し、近傍で発生したエラーを検出します。測定値自体は古典的な情報であり、エラーの有無が分かります。
  3. 復号・補正
    測定結果からエラーのパターンを推定し、対応する補正操作を実行します。しきい値より物理ビットのエラー率が低ければ、論理ビットのエラー率は符号距離に応じて指数的に低下します。
  4. 論理演算
    論理ビットに対して量子ゲートを適用します。大半のゲートは物理レイヤーで複雑な操作が必要で「ゲートオーバーヘッド」が課題ですが、色符号など一部コードでは論理ビット上で直接ゲートを行える「全変換ゲート」が利用できます。

大量の物理ビットを使い、常に測定と補正を繰り返すため、ハードウェアの堅牢性と高効率の復号アルゴリズムが不可欠です。次章では、こうした誤り訂正の実証における世界の最新成果を紹介します。

世界の最新研究とロードマップ

しきい値を超えて – 実験的ブレイクスルー

Google Quantum AIの「Willow」プロセッサ

Googleは2024年に105量子ビットの「Willow」チップ上で、表面符号の格子サイズを3×3→5×5→7×7へ拡大する実験を行い、論理ビットのエラー率が格子距離に比例して2.14倍ずつ低下することを実証しました。これは誤り訂正が理論どおり機能し、しきい値を下回った初の成果として大きな注目を集めました。論理ビットが物理ビットよりも長生きし、7×7格子では単一物理ビットの2倍の寿命を達成しています。

ハーバード大学・MIT・QuEraによる中性原子アーキテクチャ

中性原子を用いた量子コンピューターは、個々の原子を光ピンセットで自由に配置し、移動・結合できるため、並列性が高く論理ゲートを効率的に実行できます。QuEra社とハーバード大の研究チームは、光学格子と光ピンセットを組み合わせた方式で、個々の原子のエネルギー準位を利用して単一ビットを操作し、リュードベリ状態を介した二量子ビットエンタングリングを行うことにより、大規模な論理演算が可能であることを説明しています。中性原子プラットフォームは超伝導回路のような極低温が不要であり、室温付近で動作できるため、エネルギー効率や設置の簡便さが魅力です。

同研究グループは2025年、3,000個を超える原子を二時間以上連続で動作させるシステムを構築し、原子の損失に応じて新しい原子を自動補充する仕組みを実証しました。このシステムでは毎秒30万個の原子を補充できるため、従来の一度計算してはリセットという操作が不要になり、長時間にわたる回路を構築する道を開きました。研究者はこの方法により、より大きな数の量子ビットでも同様に動作する見通しが立ったと述べています。

さらに2026年時点でQuEra社は256個の物理ビットと10個以上の論理ビットを搭載した商用機を提供し、ハーバード大が3,000物理ビット・30論理ビット以上のデモンストレーションを成功させたと報告しています。中性原子方式では量子ビットを自在に移動できるため、物理ビット間の接続が自由度に富み、論理ゲートの並列実行やトランスバーサルゲートを用いた低オーバーヘッドの誤り訂正が可能になります。クエラは連続再ロードやマジック状態蒸留、論理レイヤーでのアルゴリズム的誤り訂正といった構成要素を統合し、大規模な論理回路の実行へ向けた実験結果を発表しています。

トラップドイオンとボソニックコーディング

トラップドイオン方式では、基底状態の量子ビットの長寿命と高忠実度のゲートが特徴です。2025年にPaetznickらはトラップドイオンで[[7,1,3]]、[[12,2,4]]コードを用い、複数の物理ビットを束ねた論理ビットを生成し、エラー率を物理ビットより9.8〜800倍低減することに成功しました。また一連のエラー訂正サイクルを行い、論理ビットで量子演算を継続して実行できることを示しました。これはノイズの多い小規模デバイス(NISQ)から信頼できる量子コンピューターへの重要なステップです。

ボソニック符号では単一のモード(例えばマイクロ波共振器内の光子)に情報をエンコードし、猫状態(cat code)などを使ってエラーに対する耐性を高めます。イェール大学は2016年に「ブレークイーブン」すなわち論理ビットの寿命が物理ビットの寿命をわずかに超える実験を達成し、2023年にはさらに改善されたバージョンを報告しています。フランスのAlice & Bob社は猫量子ビットに特化し、数分以上のビット反転耐性を持つ量子ビットを開発、2030年までに100論理ビットを搭載した耐故障量子コンピューター「Graphene」を実用化するロードマップを掲げています。

IBMの量子LDPCとモジュラー・ロードマップ

IBMは2024年、表面符号からqLDPCコードへ移行する方針を打ち出しました。qLDPCコードは物理ビットの必要数を最大90%削減しつつ、耐故障性を維持する可能性を示したためです。IBMのロードマップでは、2025年に「Loon」プロセッサで高接続性レイアウトを実証し、2026年の「Kookaburra」で計算用とメモリ用ビットを統合、2027年の「Cockatoo」で複数のモジュールを接続し、最終的に2028〜29年に「Starling」と呼ばれるシステムで200論理ビット規模、1億回以上の論理操作を実行可能な耐故障量子コンピューターを構築する計画です。Starlingではモジュール化したqLDPCアーキテクチャとリアルタイム復号を組み合わせ、大規模なアルゴリズムを実装します。

Quantinuum(HoneywellとCambridge Quantumの合弁)

Quantinuumは2024年に12個の論理量子ビットを使った実験を行い、量子機械学習や暗号解読などの応用を組み合わせたワークフローを提示しました。同社のロードマップは2020年代後半に「Helios」と「Apollo」というシステムを投入し、数千の物理ビットと数百の論理ビットから成る完全な耐故障機を2030年までに実現すると宣言しています。CEOのRajeeb Hazra氏は、数百論理ビットが達成されれば量子コンピューターが古典コンピューターを超える転換点に到達し、金融や化学、生命科学に大きな利益をもたらすと述べています。

IonQとその他の中性原子/イオントラップ企業

IonQはトラップドイオン方式の先駆者であり、2024年のロードマップで2030年に200万物理ビット/4~8万論理ビットのシステムを目指すと発表しました。2028年には二つのチップを光学的に接続して2万物理ビット(約1,600論理ビット)を構築する計画で、論理エラー率10⁻¹²を目指すとしています。さらに、MicrosoftとQuantinuumの共同実験を通じて高度な誤り訂正ソフトウェアを開発し、Microsoft Azure上で提供するサービスと連携しています。

Pasqalはフランス発の中性原子企業で、2025年のロードマップで1,000物理ビットと2論理ビットを2025年に達成し、2027〜28年に20〜20個の論理ビット、2029〜30年には100〜200論理ビットへ拡大する計画を掲げています。Pasqalは光集積回路(PIC)を組み込んだ次世代チップを開発し、二量子ビット忠実度99.9%を目指す一方、モジュール化とエラー訂正を統合したハードウェアを連続的にアップグレードしていく方針です。

PsiQuantumは光子(フォトニクス)方式に特化し、カナダのGlobalFoundriesと提携して数百万個の光子を使った測定ベース量子コンピューターを2028年ごろに構築すると発表しています。1百万物理ビットと数百論理ビットを実現するためにはフォトンのクラスター状態生成や大量の融合ゲートが必要であり、2025〜26年に小規模な論理ビット実証、2027〜28年に数千ビットのモジュールへ拡大すると予想されています。

トポロジカル量子ビットとMajorana 1

多くの企業が表面符号や中性原子などで耐故障を目指す一方、Microsoftはトポロジカル量子ビットの開発に取り組んでいます。2025年2月に発表した「Majorana 1」チップは、世界初のトポコンダクター(topoconductor)と呼ばれる材料を用い、Majorana粒子という特殊な準粒子を生成・制御できることを示しました。トップコンダクターは新たな状態の物質であり、従来の固体・液体・気体のいずれでもないトポロジカル状態を利用します。この新材料により、高速かつ小型でデジタル制御可能な量子ビットが得られ、チップ1枚に100万個の量子ビットを搭載する道筋があるとMicrosoftは述べています。

Chetan Nayak氏(Microsoft)はどんな量子技術でも百万量子ビットへの道筋が必要だ、もし示せなければ大規模な問題を解く前に壁にぶつかるだろうと語っています。Majorana 1はまだ8個のトポロジカル量子ビットしか搭載していませんが、同社はDARPAのUS2QCプログラムに採択され、数年以内に商用価値のある耐故障機を実現することを目標にしています。トップコンダクターを使ったチップは、量子ビットの状態をデジタル的に制御できるため、膨大なアナログ制御を必要とする他の方式と比べて大幅にシステム設計が簡素化されるといいます。

主要国・企業のロードマップまとめ

以下の表に、主要な企業/研究機関が公表している耐故障ロードマップを簡潔にまとめます。表では論理ビット目標や達成目標時期を列挙し、比較しやすいよう整理しました。

企業・研究機関方式2025年実績・計画2027〜28年計画2029〜30年計画注目点
IBM超伝導・qLDPCqLDPCコード採用。2025年に「Loon」で高接続性、2026年「Kookaburra」で計算用と記憶用統合2027年「Cockatoo」でモジュール接続。リアルタイム復号器開発2028〜29年「Starling」システムで200論理ビット・1億論理操作を実現qLDPCで物理ビットオーバーヘッドを90%削減
Google (Quantum AI)超伝導2024年「Willow」でしきい値を超えるエラー抑制を実証距離7コードの改良とアルゴリズム実装。ハイブリッドAI制御や機械学習復号の採用2028〜30年に数百論理ビットのシステムを目指すと推定(正式ロードマップは非公開)初めて論理ビットの寿命が物理ビットを上回るしきい値越えを達成
Harvard/MIT/QuEra中性原子2025年に3,000物理ビット・数十論理ビットを連続動作で実証。QuEraは256物理ビットで10論理ビットを搭載した商用機を提供2026〜27年に数十〜数百論理ビットのデモ、トランスバーサルゲートとマジック状態蒸留を組み合わせた論理回路を展開2029〜30年に100〜200論理ビット規模へ拡大予定(推定)原子を移動できるため高い並列性を活かし、トランスバーサルゲートによりオーバーヘッドを低減
Quantinuumイオントラップ2024年に12論理ビット実験を実施2026〜28年に「Helios」システムで数十論理ビットのユニバーサル機を導入2030年までに数百論理ビットの「Apollo」システムを構築し、完全な耐故障機を実現Microsoftとの連携でAI・HPCを組み合わせたワークフローを提示
IonQトラップドイオン2024年ロードマップで2028年に2万物理ビット(約1,600論理ビット)へ拡大すると宣言2028年に二つのチップを接続して1,600論理ビット、エラー率10⁻⁷2030年に200万物理ビット・4〜8万論理ビット、エラー率10⁻¹²を目指すモジュール間を光で接続し、全結合性とミッドサーキット測定を導入
Pasqal中性原子2025年に1,000物理ビット・2論理ビットを実証2027〜28年に20論理ビットへ拡大、モジュール化した次世代プロセッサ「Vela」「Centaurus」を開発2029〜30年に100〜200論理ビットのシステムへ光集積回路の導入により二量子ビット忠実度を向上、段階的アップグレードが特徴
PsiQuantumフォトニクス2025〜26年に小規模論理ビットを実証(推定)。フォトニクス測定ベース量子計算により百万物理ビットを要する2027〜28年に数千物理ビットのモジュールを構築2028〜30年に百万物理ビット・数百論理ビットで耐故障機を目指すフォトニクスは低温不要で製造が半導体プロセスと相性がよい。巨大な融合ゲート回数が課題
Alice & Bob (フランス)猫コーディング(ボソニック)2024年までに猫量子ビットで7分以上のビット反転耐性を実証2025〜28年に論理ビット構築と論理ゲート実証を進める2030年に100論理ビットを搭載した「Graphene」を発表予定ノイズバイアスを利用した猫ビットにより物理ビット数を大幅に削減。ビット反転エラーに強い
Microsoftトポロジカル2024年にMajoranaゼロモードを確認し、2025年に世界初のトップコンダクター「Majorana 1」を発表2026〜27年にトポロジカル量子ビットをデジタル制御する小規模耐故障機を実証予定2030年代初頭に百万量子ビット規模のシステムを構築する計画トポコンダクターにより百万ビットを1枚のチップに集積できる可能性。US2QCプログラムに参画

世界の経済動向と社会的インパクト

市場規模の予測

量子コンピューターが実用化されれば、化学、製薬、金融、材料科学、物流など多岐にわたる分野で莫大な経済価値を生むと期待されています。大手調査機関やコンサルティング会社は以下のような予測を示しています。

McKinseyの2025年報告によれば、量子技術全体(計算・通信・センシング)の市場規模は2035年に280億〜720億ドル、2040年には最大1,980億ドルへ達する可能性があります。同報告は2024年の投資額が約20億ドルに達し、政府の出資割合が急増していることも指摘しています。

JefferiesやMcKinseyの推計を引用した米フォーチュン誌の報道では、2024年時点で量子コンピューティングの売上は約10億ドルであり、2040年には1,980億ドル規模になるとしています。同記事ではBoson Consulting Group(BCG)による1700億ドル予測も紹介されており、10〜15年後に市場規模が数百倍に拡大する可能性が示されています。

ヨーロッパの分析会社 Yole Groupは2024年時点で9億5,400万ドルの量子コンピューティング市場が2035年には174億ドルになると予測しています。

これらの予測には幅がありますが、いずれも現在の数十倍から数百倍の成長を見込んでいる点で一致しています。とはいえ、2025年時点では多くの企業が赤字であり、収益化までには時間がかかると指摘されています。

投資動向とスタートアップの活況

McKinseyの調査によれば、2024年に民間投資家と政府の支援を合わせて約20億ドルが量子技術スタートアップに投じられました。特に政府出資の割合が前年から19ポイント増加しており、量子技術を国家競争力の要と見なす政策が強まっています。投資の大半は成熟したスタートアップに集中しており、PsiQuantumとQuantinuumの2社が総投資額の半分を占めました。新興企業はエラー訂正コードやコンポーネント、アプリケーションソフトウェアに焦点を当てており、サプライチェーンの専門企業が増えています。

なお、米Citiが発表したレポートによると、量子コンピューターによる暗号解読が金融機関に及ぼすリスクは甚大であり、1回の攻撃で米国GDPの2.0〜3.3兆ドルが失われる恐れがあると指摘されています。現在すでに今盗んで、後で解読する型の攻撃(Harvest‑now‑decrypt‑later)が行われているとの警告もあり、各国政府はポスト量子暗号(PQC)への移行を急いでいます。同レポートでは米国連邦政府が2030年までに機密情報の暗号方式を量子耐性に移行する計画を公表しており、EUや日本でも2030年代前半に移行が完了する見通しです。

量子コンピューターの社会的用途と経済効果

量子コンピューティングが本格化すると以下のような分野で大きな経済効果が見込まれています。

  1. 医薬品・材料開発
    分子の電子状態や反応経路を高精度でシミュレーションすることで、新薬や高性能材料の開発期間を大幅に短縮できる可能性があります。Microsoftは百万量子ビットの機械があれば自己修復材料やプラスチック分解触媒を設計できると述べています。
  2. 金融
    ポートフォリオ最適化やリスク評価などの複雑な最適化問題を高速に解けることが期待されています。Bank of Finlandの調査では、金融機関は長期的にはリスク管理や情報セキュリティに大きな利点を見出しているものの、短期的には実用例が少なく、量子暗号への対応が先行課題となっていることが報告されています。
  3. 物流・サプライチェーン
    大規模な組合せ最適化を高速に解くことで配送経路計算やサプライチェーンの在庫配置などに応用可能です。PasqalやQuantinuumは既に産業用最適化プロジェクトを始めています。
  4. 機械学習
    量子機械学習アルゴリズムにより、高次元データの特徴抽出やサンプル生成が効率化される可能性があります。特に誤り訂正によって数百万回の反復が必要なアルゴリズムを実行できるようになると、実用的な優位性が期待されます。

日本における耐故障量子計算の現状

国内研究機関と企業の取り組み

日本では、政府主導の量子技術研究開発が活発に進んでいます。2025年に公表された産業技術総合研究所(AIST)と理化学研究所のロードマップでは、量子コンピューターの部品は既に国内外で多く製造されているものの、1000量子ビット超のシステム構築には小型化・高密度実装・省エネ化が不可欠であり、これを支える産業サプライチェーンを整備する必要があると強調しています。このロードマップは、量子コンピューター市場が2045年に4,000〜8,500億ドルの価値を生む可能性があると推定し、材料開発や金融などの応用分野で経済効果が見込まれると述べています。

日本企業の動向も活発です。富士通は2025年にNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の支援を受けて、10,000量子ビット超の超伝導量子コンピューターを2030年度までに開発し、250論理ビットを実現する計画を発表しました。将来的にはダイヤモンドスピン量子ビットを組み合わせて2035年までに1,000論理ビットを目指すとしています。既に2023年に64量子ビット、2025年4月に256量子ビットの装置を完成させており、ハードウェアの集積度を高めつつ高スループットな製造プロセス、チップ間インターコネクト、低消費電力な制御回路、誤り訂正デコーダの高速化などを技術課題に挙げています。

大学・研究機関では、東京大学の古澤明教授らのグループが光子を用いたGottesman–Kitaev–Preskill (GKP)符号の論理量子ビット生成に成功しました。これは伝搬光パルス1本につき1個の論理量子ビットを実現するもので、将来的な光量子コンピューターの耐故障化に向けた重要な基盤と評価されています。慶應義塾大学量子コンピューティングセンターでは、ノイズに強いコンパイラやハイブリッドアルゴリズムの研究を通じて将来の耐故障コンピューターに対応するプログラムスタックの整備を進めています。

スタートアップでは、Yaqumo(冷却原子技術)とシンガポールのEntropica Labsが2026年に耐故障量子計算に関する覚書を締結し、ハードウェアとエラー訂正ソフトウェアを統合した共同開発を始めています。日本国内では、量子計算用のFPGA制御システムや冷却装置など周辺機器を手掛ける企業が増えており、サプライチェーンの拡充が始まっています。

課題と展望

日本が耐故障量子計算で世界をリードするには、以下の課題を克服する必要があります。

  1. スケーラブルなハードウェア
    10,000量子ビット以上の超伝導チップを製造するには、パターン形成や接続配線の精度向上が必須です。富士通の計画では、量子チップ間の高密度インターコネクトやパッケージング技術の開発が重要とされています。
  2. 低温・制御システム
    超伝導量子ビットでは極低温環境が必要です。物理ビット数が増えるほど冷却パワーや制御配線がボトルネックとなるため、冷却効率を高めつつ配線を減らす技術開発が求められます。
  3. リアルタイム復号器
    多数の物理ビットから得られるシンドローム情報を高速に復号するには、専用ハードウェアやAIアクセラレーターを使ったリアルタイム処理が必要です。IBMなどが研究しているqLDPC用復号器はこの点で重要な役割を果たします。
  4. 人材育成と国際連携
    量子誤り訂正の専門家は世界で数百人規模にとどまり、2030年までに数千人が必要とされています。日本国内で高度な量子技術者を育成するとともに、海外企業や研究機関と連携し、知識と資源を共有することが不可欠です。YaqumoとEntropicaの提携はその一例です。

技術的・産業的課題

耐故障量子計算の実現には、量子ビットそのものの品質向上に加えて、工学的なハードルが数多く存在します。ここでは、Eviden社が提起した課題を中心に整理します。

  1. 物理量子ビットの数とエラー率
    現時点では数十〜数百の物理ビットで論理ビット1個を作るのがやっとであり、実用的なアルゴリズムに必要な数百万回の論理操作には数千ビット規模が必要です。
  2. エラー訂正コードの選択
    表面符号が成熟しているもののオーバーヘッドが大きく、色符号やqLDPCコードは理論的に有望だが実装が難しく、既存のデバイスで動作するコードを選択する必要があります。
  3. リアルタイム復号と自動運用
    エラー訂正を行うには、ミリ秒以下の周期で大量のシンドロームを処理して補正命令を出さなければなりません。現在多くの実験は論理記憶(量子メモリ)にとどまり、実際のアルゴリズムを実行する段階には到達していないとEviden社は指摘しています。
  4. 製造コストとエネルギー効率
    超伝導回路では大規模クライオスタットや複雑な配線が必要で、コストと消費電力が高い。一方、中性原子やフォトニクスは室温で動作する可能性があり、エネルギー効率に優れますが、原子の配置制御や光子の生成と検出に高度な技術が求められます。
  5. 標準化と測定指標の明確化
    2025年以降、QECの研究が活況となり、論文数が前年の3倍以上に増えました。しかし量子優位性という曖昧な言葉では進歩を測りにくく、QuOps(error‑free Quantum Operations)という指標が導入され始めています。キロQuOp、メガQuOpといった分類を設けることで、量子コンピューターの能力を明確に比較できるようになるでしょう。

今後の展望とまとめ

耐故障量子計算は、ノイズまみれの量子ビットを束ねて理論上は無限に安定な論理ビットを作るための壮大な挑戦です。2024〜25年にかけて、Googleやハーバード大学などの研究グループがしきい値を下回るエラー率で論理ビットを実行し、論理ビットの寿命が物理ビットを超える転換点に到達しました。これにより、耐故障量子コンピューターの構築が現実的なものとなりました。

しかし、産業界が要求する数百万回の論理操作を安定に実行するには、100〜1000単位の論理ビットが必要であり、各企業は2028〜30年にかけて数百論理ビットの実現を目指しています。実現のためには次の要素が鍵となります。

  • 高忠実度で拡張性の高い物理ビット
    中性原子、トラップドイオン、超伝導、フォトニクス、トポロジカルなど様々な方式が競争しており、物理ビットの寿命・制御性・配置自由度が重要です。
  • 効率的なエラー訂正コード
    qLDPCや猫コード、色符号など、物理ビットの使用量を減らしつつエラーを指数的に抑えるコードの研究が進んでいます。
  • リアルタイム復号器と自動運用
    ミリ秒単位でシンドロームを解析し補正するハードウェア、さらに数千〜数万量子ビットを安定運用するソフトウェアスタックが必要です。AIや高性能計算(HPC)との連携も不可欠です。
  • サプライチェーンと人材育成
    量子チップの製造、低温機器、制御電子回路など多くの産業分野が関わるため、国際的なサプライチェーンの整備と専門人材の育成が重要です。日本ではAIST/RIKENロードマップが産業参入の指針を示しています。

経済的には、量子コンピューター市場は2030年代に数百億ドル規模へと成長すると予測され、金融・製薬・材料開発などで莫大な付加価値を生み出す可能性があります。しかし同時に、暗号解読などの安全保障リスクが高まることも明らかになっており、ポスト量子暗号の整備や法規制が急務です。

今後10年は、耐故障量子計算を実現するための技術的ロードマップの正念場となります。2025〜26年にかけて初期的な耐故障機が出現し、2030年前後には数百論理ビット規模のシステムが利用可能になると見込まれます。初期段階では実験室や特定の産業用途に限られるかもしれませんが、AIやHPCと組み合わせたハイブリッドシステムが実用価値を高めるでしょう。量子技術は決して一夜にして成熟するわけではなく、長期的な研究投資と国際協力が不可欠です。読者の皆さんも、量子コンピューティングという新しい道具が社会に浸透する過程を注視し、その可能性とリスクの両方を正しく理解することが重要です。

参考

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https://alice-bob.com/wp-content/uploads/2024/12/Alice-Bob-Roadmap-Long-Version.pdf
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https://www.quantinuum.com/press-releases/quantinuum-unveils-accelerated-roadmap-to-achieve-universal-fault-tolerant-quantum-computing-by-2030
<IonQ | Roadmap>
https://www.ionq.com/roadmap
<IonQ’s 2025 Roadmap: Toward a Cryptographically Relevant Quantum Computer by 2028>
https://postquantum.com/industry-news/ionqroadmap-crqc/
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https://postquantum.com/quantum-computing-companies/pasqal/
<PsiQuantum>
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<Fujitsu starts official development of plus-10,000 qubit superconducting quantum computer targeting completion in 2030 | Fujitsu Global>
https://global.fujitsu/en-global/pr/news/2025/08/01-01-en
<Research Results – Generation of GKP Logical Qubits with Propagating Light for Fault Tolerance | Japan Science and Technology Agency (JST)>
https://www.jst.go.jp/EN/achievements/research/bt2025-14.html
<量子コンピューティングセンター | 慶應義塾大学 グローバルリサーチインスティテュート>
https://www.kgri.keio.ac.jp/project/research-centers/2025/A25-05.html
<YaqumoとEntropica Labs、シンガポールおよび日本政府立会のもとでMOUを締結 | 株式会社Yaqumo>
https://yaqumo.com/news/229/
<Quantum Error Correction: Our 2025 trends and 2026 predictions – Riverlane>
https://www.riverlane.com/blog/quantum-error-correction-our-2025-trends-and-2026-predictions
<Neutral-Atom Quantum Computing Market 2026-2036: QuEra-Google, Atom Computing-Microsoft, and Pasqal Drive 1,000-to-Million-Qubit Roadmap Toward Fault-Tolerant Systems – ResearchAndMarkets.com>
https://www.businesswire.com/news/home/20260112950379/en/Neutral-Atom-Quantum-Computing-Market-2026-2036-QuEra-Google-Atom-Computing-Microsoft-and-Pasqal-Drive-1000-to-Million-Qubit-Roadmap-Toward-Fault-Tolerant-Systems—ResearchAndMarkets.com

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