天平の疫病大流行は、735年と737年を中心に奈良時代の日本列島を襲った、古代日本最大級の感染症危機です。重要なのは、これを「昔の大流行」で終わらせないことです。これは、人口密集都市、対外交通、文書行政、財政、宗教、政治再編が、一つの疫病事象の中で同時に揺さぶられた国家史上の試練でした。
小まとめ:天平の疫病大流行とは何か
天平の疫病大流行は、簡単に言えば、奈良時代の律令国家が経験した広域パンデミックです。735年の流行は大宰府管内の九州北部で深刻化し、737年には全国規模に拡大して、朝廷の政務を止め、公卿層にも大打撃を与えました。現在の研究では、中心となった病気は天然痘とみる説が有力ですが、737年の病名と症状をめぐっては議論がなお残ります。
概要:何が起きたのか
『続日本紀』は、735年の是歳条で「豌豆瘡(裳瘡)」の流行を記し、737年の条では「疫瘡」の全国的拡大を伝えます。737年の太政官符では病名を「赤斑瘡」とし、高熱、下痢、咳、嘔吐、鼻血・吐血などの症状が書かれています。このため、735年は天然痘、737年も同じ天然痘とみる理解が長く有力でしたが、737年については麻疹やチフスに近いのではないかという再検討も続いています。
ただし、2026年時点での実務的な整理としては、「735年は天然痘とみてよい」「737年は天然痘説が依然として有力だが、病名と症状の解釈には未解決部分がある」と理解するのが最も安全です。近年の概説でも、737年流行を最終的に天然痘とみる整理は根強く、一方で交通史・文献学の研究は、病名論争を未決着の問題として丁寧に扱っています。断定一辺倒ではなく、史料の語彙と症状記述のズレを認めた上で読む必要があります。
時代背景:地理・気候・人口・周辺環境
当時の日本列島では、九州北部の大宰府が外交・交易・防衛の前線拠点でした。外国使節の応接や交易も担うこの拠点から疫病が広がったことは、天平の大流行が「辺境の出来事」ではなく、東アジア交流と直結する事態だったことを意味します。さらに、平城京は5万〜10万人規模の住民を抱え、そのうち1万人前後が役人だったと推定されており、人口密度と人の移動の多さが感染拡大を後押ししやすい条件でした。
735年の史料には、穀物が十分に実らず、夏から冬にかけて流行が続いたことも記されています。つまり、この大流行は「病原体だけ」の事件ではありません。食糧事情の悪化が人びとの抵抗力を下げ、そこへ海路と駅路を通じた広域移動が重なったことで、疫病が社会全体の危機へ増幅されたと見るべきです。
政治的視点:権力・共同体・支配構造
天平の疫病大流行が歴史上とくに重要なのは、被害が庶民だけでなく国家中枢を直撃したからです。737年には百官人が疫病にかかって「廃朝」、つまり政務停止に近い事態となりました。公卿層では、藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂の四兄弟が相次いで死亡し、参議・中納言層の死亡率はきわめて高く、これが政権構成を大きく変えました。
この結果、藤原氏の独占的優位は一時的に弱まり、橘諸兄が政権の中心に浮上します。ここで重要なのは、疫病が「人が死んだ」で終わらず、権力の担い手そのものを入れ替えたことです。律令国家の制度は崩壊しませんでしたが、誰がそれを運営するのか、どの政策を優先するのかが、疫病を境に変わったのです。
朝廷の対応もまた興味深いです。大赦、賑恤、寺院での読経、神社への奉幣、道饗祭の実施、湯薬の支給など、神祇・仏教・行政を総動員して対処しました。現代の目で見ると非科学的に映る部分もありますが、当時の国家にとっては、政治の正当性を保ちながら危機を鎮める現実的なフルパッケージだったと理解すべきです。
経済的視点:生産・労働・税・財政
経済面では、最も重要な一次資料が諸国正税帳です。そこには、出挙、つまり春に公的に貸し出された種籾や稲を返済できないまま死亡した人びとの割合が記され、和泉監で44%、豊後国で30〜31%、駿河国で30〜34%、長門国で14%という高率が確認できます。これは、その前年や翌年の水準と比べて突出しており、地域ごとの被害の深さを具体的に示す数字です。
よく知られる「総人口の25〜35%が死亡した」という推計は、こうした税帳・戸籍類を用いた人口史分析に基づくモデルです。ハーバードの紹介ページが示す通り、Farrisの研究は税・戸籍・法令などを組み合わせた体系的な人口分析であり、1,000,000〜1,500,000人前後という数字は、厳密な実数ではなく、前提付きの推計として扱う必要があります。それでも、古代日本社会にとって桁違いの人口喪失だったこと自体は、ほぼ疑いません。
国家は治療法だけでなく、食事まで指示しました。太政官符では、冷水を飲ませない、身体を冷やさない、粥や䌬を食べさせる、鮮魚・肉・生野菜・氷を避ける、無理をしてでも食事を取らせる、といった具体的な指示が並びます。そして材料がない場合は官物から支給せよと命じています。つまり、当時の医療対策は、薬だけでなく、栄養・加温・補給を含む生活管理政策でもあったのです。
長期的には、近年の研究の一部が、740年代以降の負担軽減策、地方行政の見直し、土地政策改革を「復興政策」として読み直しています。とくに743年の墾田永年私財法は、人口減少と荒廃地の再生、財源確保、開墾インセンティブの強化という文脈で理解されるようになっています。ただし、これを「疫病が起きたから直ちに法が出た」と単線的に説明するのは危険で、都造営や国分寺建立など複数の構造要因も併せて見る必要があります。
地政学的視点:勢力圏・交通路・対外交流
この大流行は、古代日本の対外交流のリスクを可視化しました。大宰府は外来の人・物・情報が集まる窓口であり、そこから列島内部へつながる山陽道や瀬戸内海航路が感染拡大の通路になりえました。国家が道饗祭を国境や交通の要所で行わせたのは、病を「外から侵入するもの」と捉えていたからで、その発想自体が交通路の重要性をよく示しています。
737年の大流行については、遣新羅使が帰京後に都へ病を持ち込んだ可能性が指摘されています。もっとも、市大樹の整理では、使節団の中には新羅到着前に九州で発病したとみられる人物もおり、単純な「新羅で感染して持ち帰った」とは言い切れません。さらに、734年の遣唐使船や新羅使の来朝を735年流行の発端とする説にも決定打はなく、流入経路はなお確定していません。
ここで見えてくるのは、疫病を広げたのが「交易そのもの」ではなく、外交・物流・情報伝達を担う日常的なネットワークだったという点です。国家はそのネットワークで成立していましたが、同じネットワークが病も運んだのです。この二面性が、天平の疫病大流行を国家史の主題に押し上げています。
技術的視点:医療・記録・物流の能力と限界
技術面で注目すべきは、奈良時代国家がすでに高度な文書行政を持っていたことです。太政官符は、原本を六道に送り、各国で書き写して次の国へ回し、郡司クラスの人員を使者に充てて「留滞有ること無かれ」と急送させました。しかも本来必要な天皇御璽ではなく、迅速化のため官印で発給したと明記しており、朝廷が物流と情報伝達の速度を強く意識していたことがわかります。
一方で、できなかったこともはっきりしています。病原体の正体を確定する微生物学はなく、ワクチンも種痘も当然ありません。対策は、症状観察、食事管理、加温、薬湯、祈祷、交通儀礼、救済物資の給付に限られました。天然痘が人類史上初めて世界的に根絶されるのは1980年であり、天平期の人びとは、後世から見ればきわめて限られた医療技術のなかで、行政力と信仰を組み合わせて耐えるしかなかったのです。
文化・宗教的視点:価値観・祈り・日常生活
天平の疫病大流行は、国家仏教の強化と深く結びついています。東大寺の公式説明が示すように、光明皇后の兄弟たちを死に追いやった流行や政変の連続のなかで、聖武天皇は仏教によって国家と民衆の安穏をはかろうとする姿勢を強め、741年の国分寺・国分尼寺建立の詔、743年の大仏造顕の詔へ進みました。つまり大仏建立は、単なる文化事業ではなく、国家危機への宗教的・政治的回答でした。
同時に、庶民レベルでも対応が進みました。奈良文化財研究所と文化庁の解説によれば、平城京の出土資料には、疫病神や瘧鬼を退散させようとする呪符木簡、人形、土馬、人面墨書土器が見えます。しかも、人面墨書土器は平城宮内よりも庶民居住域で多く出土し、疫病対策が国家の祭祀だけでなく都市住民の日常実践でもあったことを示しています。
さらに、二条大路のゴミ捨て穴から、まだ使えそうな食器が大量に捨てられていたことから、器の使い回しを避けるような実践があった可能性も指摘されています。これは確定した結論ではありませんが、考古資料から庶民の衛生意識や不安対応を読み解こうとする近年の視点をよく表しています。国家政策だけでなく、物の捨て方やまじないまでが研究対象になっている点は、昔の研究との大きな違いです。
歴史的視点:前後の時代とのつながり
この疫病は、律令国家を崩壊させたわけではありません。むしろ、危機にさらされた国家が、誰を中心に立て直し、どの制度を微調整し、どの宗教政策に資源を投じるかを選び直した出来事でした。政治的には藤原四兄弟の死による再編、宗教的には国分寺・大仏造立の加速、経済的には荒廃地再開発と財源確保を重視する方向への傾斜が見えます。
後世への影響も小さくありません。小さな伝染病史ではなく、疫病が交通・税・労働・祭祀・宗教と結びついて国家の選択を変える、というパターンは、その後の日本史でも繰り返されます。現在の研究がこの出来事を「古代医療史」だけでなく「国家危機管理史」として読み直しているのは、そのためです。
研究史:学説はどう更新されてきたか
研究史を大づかみに言えば、古い段階では「何の病気か」「どれほど死んだか」「政治にどう影響したか」が中心でした。Cambridgeの概説がまとめる通り、近代の富士川游や戦後の服部敏良の仕事が疾患名の整理を進め、Farrisは人口・税帳・土地制度との関係を含む体系的分析を行いました。かなり長い間、天平の大流行は「古代日本初の大規模天然痘流行」としてほぼ直線的に語られてきたのです。
しかし、2000年前後以降は再検討が進みます。野崎千佳子の論考は天然痘説批判として文献目録データベースに記録されており、2021年の市大樹論文も、737年の赤斑瘡をめぐる麻疹説・チフス説を紹介した上で、なお天然痘説が有力だが未決着と整理しています。つまり、現在の研究は「昔の定説をただ繰り返す段階」にはありません。
さらに2020年代には、研究の焦点そのものが広がりました。市大樹は交通現象から疫病を分析し、2024年の研究は740年代の政策群を「復興政策」として再評価し、2025年開始の科研費プロジェクトは食と栄養、土器の化学分析、木簡などを通じて社会的原因と感染症対策を総合的に解こうとしています。別の科研費課題では、都鄙間交通や社会構造の変化から疫病の動態を読み解く方向が示されています。2026年時点の研究動向は、政治史中心から、交通史・考古学・栄養学・制度史の統合へと確実に進んでいます。
この点から逆にわかるのは、決定的な病原体証拠がまだ十分ではない、ということでもあります。現在の大型研究プロジェクトが、なお文献・木簡・土器・栄養・交通を主軸に組み立てられているのは、天平の疫病大流行が、現時点でも「史料の総合読解」で迫るべきテーマであることを示しています。ここはまだ研究途上です。
当時の課題:制約・リスク・対立構造
当時の最大の制約は、病そのものよりも、病が社会の弱点を一斉に露出させることでした。食糧不足、人口密集、広域交通、役人への集中感染、医療技術の限界、地方伝達の遅れ、農業労働力の喪失が、同時多発的に起きたのです。だからこそ朝廷は、読経も、道饗祭も、湯薬も、粥の支給も、文書急送も、全部を並行してやらねばなりませんでした。
現代人が読み取るべきなのは、「昔は非科学的だった」という優越感ではありません。むしろ、限られた知識であっても、社会は記録し、輸送し、救済し、祈り、制度を作り替えようとしたという事実です。天平の疫病大流行は、疫病が国家と社会を壊すだけでなく、国家と社会の仕組みを露わにし、再設計を迫ることを教えてくれます。
よくある疑問Q&A
Q:天平の疫病大流行とは簡単に言うと何ですか。
735年から737年にかけて奈良時代の日本列島で起きた、古代日本最大級の広域感染症危機です。九州北部から始まった流行が全国へ広がり、庶民だけでなく朝廷の中枢にも被害を与えました。単なる流行病ではなく、政治・財政・宗教政策を変えた国家危機として重要です。
Q:病気は本当に天然痘だったのですか。
735年の「豌豆瘡」は天然痘と読む理解がかなり強いです。問題は737年で、太政官符では「赤斑瘡」と書かれ、麻疹やチフスに近いのではないかという説もあります。2026年時点では天然痘説が有力ですが、737年については未確定部分が残る、というのが最も妥当です。
Q:どこから広がったのですか。
史料上、深刻な流行の起点は大宰府管内の九州北部です。大宰府は対外交流と防衛の前線拠点だったため、海路と駅路を介した感染拡大が起こりやすい場所でした。ただし、具体的にどの人・どの船・どの外交使節が持ち込んだのかは確定していません。
Q:なぜ歴史上そんなに重要なのですか。
藤原四兄弟が全員死亡し、政権構成が変わったからです。また、国家仏教の強化、国分寺政策、大仏造立、復興を意識した土地政策や行政再編の議論にもつながります。人が多く死んだというだけでなく、国家の優先順位そのものを変えた点が重要です。
Q:政府はどんな対策をとりましたか。
賑恤、湯薬の支給、具体的な治療法と食事規制を記した太政官符の急送、寺院での読経、神社への奉幣、道饗祭などを実施しました。現代の防疫とは違いますが、当時の国家能力の範囲で、行政・宗教・物流を総動員した対応でした。
Q:経済にはどんな打撃がありましたか。
正税帳には、出挙を返済できないまま死亡した人びとの割合が異常に高く記録されており、農業労働力と地域財政に大きな打撃が出たことがわかります。よく引用される総人口25〜35%死亡という数字は推計ですが、労働力不足と生産低下が深刻だったこと自体は確かです。
Q:大仏建立と関係がありますか。
直接の単一原因ではありませんが、強い関係があります。東大寺の公式説明でも、疫病や政変が続いた治世のなかで、聖武天皇が仏教に国家安定の役割を期待し、国分寺建立や大仏造顕へ向かったと説明されています。大仏建立は文化政策であると同時に、危機への宗教的回答でもありました。
Q:庶民はどう対応したのですか。
考古資料からは、呪符木簡、人形、土馬、人面墨書土器などを用いた対応が見えます。これは迷信と切り捨てるより、当時の人びとが病をどう理解し、どのように日常生活のなかで対抗しようとしたかを示す社会史資料として読むべきです。場合によっては器の使い回しを避けた可能性まで議論されています。
Q:現在の研究でまだ分からないことは何ですか。
最大の未解決点は、737年の病名と病原体の確定です。また、流入経路、各地域の死亡規模の正確な差、庶民の日常的対策の実態、復興政策と疫病の因果関係の強さも、なお議論があります。だからこそ近年は、交通史、考古学、栄養学、制度史を統合する研究が進んでいます。
まとめ
天平の疫病大流行の本質は、奈良時代の日本が経験した「病気そのもの」ではなく、「国家と社会の脆弱性が一気に露出した危機」だったことにあります。大宰府という対外交流拠点、平城京という人口密集都市、律令国家の文書行政、農業労働への依存、そして仏教を用いた鎮護国家の発想が、この事件のなかで一つにつながります。だからこのテーマは、感染症史であると同時に、国家・制度・都市・文化の歴史でもあります。
歴史上の重要性は三つあります。
第一に、藤原四兄弟の死を通じて政治の担い手を変えたことです。
第二に、農業と財政に打撃を与え、土地政策や復興策の再考を促したことです。
第三に、国分寺建立や大仏造立へとつながる国家仏教の強化を後押ししたことです。
天平の疫病大流行は、「国家が危機にどう応答するか」をめぐる古代日本の転換点でした。
現代人がここから読み取れるのは、パンデミックは医療だけで解ける問題ではない、ということです。交通、情報、食料、救済、信頼、儀礼、統治能力がそろって初めて社会は持ちこたえます。天平の疫病大流行は、古代の事件でありながら、現代の感染症危機にも通じる「社会システムの試験」でした。
参考
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